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フルーツパフェ、ショートケーキのいちご

たいそう長く美しいできごとばかりだった春休みも、もうあと2~3週間でおしまいなのを惜しくは思うけれど、その頃には桜の花を見ることができる希望も胸に光っていて、何やら複雑な感じがする。

ただ、もう少ししたらまた恋人が東京へ戻ってしまうので、最近そのことについて考え始めた。いま私の心は凪いだ海のように安定していて、それはこの春休みに好きな人と多くの日々を共有できたことのあらわれでもある。

だからまだあんまりさびしくない。数ヶ月後には、こんなことを言っている自分をうらめしく思っていることだろうけれど(ちなみに、昨日この文章を書き始めてからお布団に入ったらすっかり目がさえてしまい、ようやく眠ったあともすごくへんてこりんでさびしい夢をみた)。

いつだったか、私がLINEで「いちごのショートケーキを食べたい」と言ったら、彼は俺のショートケーキのいちごもあげるよ、と返してきた。私はいちごがとても好きなのだ。いちごがひとつしかなくても?と尋ねると、もちろん!と元気な返事が来て、私は喜びと同時になんてことだろうと思って、あわてて彼に「私もあなたの好きなものをあげたい、何が好き?」と質問した。

すると彼は、じゃあ、ラーメンを食べるときにチャーシューが2枚あったら、そのうちの1枚を分けてほしいかな、と私に言ってきた。そんなの、2枚でも3枚でも喜んであげるのにと思いながら、分かった、あげるね、と返した。相手の好きなものを喜んで差し出すというのはすてきな行為だなと思う。

そしてこの春休み、つい先日、ふたりで喫茶店に行ってパフェを食べた。彼は私にいちばん大きないちごをくれた。ショートケーキではなかったのだけれど、あたりまえのように「はい!どうぞっ」とくれたのだ。だから今度、ふたりでラーメン屋さんに行ったら、私はあたりまえのように彼にチャーシューをあげようと思う。何枚だって望むところ。もしかすると、そうなるのは夏休みかもしれないけれども。

そのようなことを胸に私は春を迎えるだろう。朗らかで、華やかで、夢見るような季節を。春風は冬とともに恋人もさらっていく、この数年間ずっと。私はそれがたまらなくさびしく切ない。

けれどそのもの悲しさを、私は決して嫌いではないのだ。春は全てをやさしい色のフィルターにかけてしまう。薄くて柔らかなヴェールのようなフィルター。そしてほんの少しの切なさは、そのフィルターをより魅力的に見せる。私はそのことを知っている。

勉強も、将来のことも、家族や友人たちのこともいろいろあるから、好きな人のことばかり考えているわけにはいかないのかもしれないけど、今は許して。

彼は私にいちごをくれる素晴らしい恋人だから、私は彼にとってチャーシューをくれるすてきな恋人になりたいな。あんまり可愛くない愛称だけれど。

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