水の聖歌隊をよみながら

言語学者の
エドワードサピア
ていうひとが、

言葉は
個人的感情から
無該当なものを
とりさったもの

みたいなこと
いうてた、

サピアの弟子の
ベンジャミンリーウォーフ
ていうひとは、

言葉によって
にんげんの

ええと、

どんな言語でも
現実世界を
正しく表現できる
わけやなくて
そのひとのつかう
言語によって
世界の表現の
できかたがちがうし、
そしたら
現実世界の
見えかた
そのもんもかわる、

みたいなこと
いうた、

これはいくらか
否定されてて、

ウォーフの
かんがえやと

その言語のなかの
色をあらわす
単語の数によって
色の識別に
へんかあるはずやけど、

エレノアロッシュ
ていうひとは、
色には
そもそも
人間が
識別しやすい色
ていうんがあって、
それは言語とは
かんけいないんやないか、
てかんがえた、

パプアニューギニアの
ダニ族ていう
ひとたちの
ことばのなかには

あかるくてあたたかいいろ
くらくてつめたいいろ

そのふたつしか
単語がないんやけど、

それでも
ほかの言語の
ひとたちと
おなじように
いろんな色を
識別できた、

虹は
特定の色で
できてるんやなくて
この世界の
ぜんぶの色の
グラデーション
なんやけど、

でもそれが
たとえば
7色にみえるんは
特定の色が
きわだって
みえてるからやけど、

ウォーフの
かんがえやと
それは
まずさいしょに
ことばがあるから
そうみえる
はずやった、

ロッシュの
実験やと
そうでなく、

そもそも
にんげんは
そうみえるいきもんやった、
ことばのまえに
からだがあった、

においは、

においをあらわす
単語を
おもいだすと、

たとえば
赤、
とか、
青、
とかみたいに、

具体的なもんから
抽象化したような
単語がない、

あまいにおい
とか、
すっぱいにおいとか、
それは
たしかに
抽象化されてるけど、

それはにおいから
抽象化したんやなくて、
いちど味覚が、
抽象化してる、
そのことばを
つかってる、

嗅覚そのもんは
言葉を抽象化してへんくて、

においは、

バラのようなかおり、
とか、
こげたようなにおい、
とか、
力士のにおいは
びんつけあぶらのにおい、
とか、

それそのもんていうか、
具体的な名詞を
つかってあらわす、

つまり
においの表現の数は
その言語の、
そのなかの
名詞の数に
対応してるから、

そもそも
みんな
その言語がもってる
名詞を限界まで
しってる
わけやないから、

これはぼくの、
いきてての
実感として

ぼくは
花の名前を
あんまり
しらへんのやけど、

たくさんしってる
ひとは
たくさんの
花のにおいを
個別に
しってることに
なるかもしれへんし、
しってるてことは

かぎわけが
ぼくより
できるんやろか、

花の名前
たくさんしってるひとと
しらんひとで
花のにおいの
かぎわけに
差がでるんか、

なんか、

しらんくても
かぎわけは
できそうな
きもしてきたんやけど、

だってそれは
たしかめんと
わからへんから、

どうなんやろ、

特定の色が
よくみえるんは
にんげんのせえで、

またおんなじこと
いうけど、

虹は
すべての色の
グラデーションで、

でも
文化的に虹を
すべての色の
グラデーションとして
認識してる
地域の
はなしは
きいたことない、

あるんかもしれんけど、
ぼくはまだ
きいたことなくて、

5色なり7色なりに
みえるんは
特定の色が
きわだってみえる
ていう
にんげんの機能に
よってて、

その機能は、

にんげんが
いままで地球で
いきてくなかで
必要やったからで、

その必要を
いまも
からだとして
ぼくらは
もってて、

せやから、
においにも
認識しやすい
においていうんが
あるんやろか、

地球のいきもんとして
必要やったにおいが

あるんかなて
おもうけど、

けど
カレーのにおいとか、
何万年かまえまで
地球に
なかったきいする
においを
ぼくは印象的にかんじる、

はなしかわるけど、

折口信夫さんは
コカインのしすぎで
鼻がわるかったらしくて、

しかも潔癖な
とこあったんか
しらんけど
一時期
食器とか
調理器具を
ぜんぶ弟子に
クレゾールていう
においのきつい
消毒液みたいなんで
洗わせてたんやけど、

みずであらいながしても
クレゾールのにおいは
あんまりおちんかった
らしくて、
たべもんとかも
ぜんぶクレゾールのにおいして、
弟子はたいへん
やったらしいけど、

折口さんは
鼻がわるいから
きにしてへんかった、

音は、
聴覚は、
抽象化する
ことができる、
みたいにおもう、

楽器にかんけいなく、
音をドレミで
表現できるから、

虹といっしょで、
音もすべての
周波数のグラデーションの
はずなんやけど、

音階にくぎられてるんは、

まあ
だれかが
恣意的につくったもん
なんやろうけど、

それは色とおんなじで
人間の聴覚の、
人間が識別しやすい音、
ていうんが
かんけいしてるんやろか、

現実の音楽が
抽象化されて
楽譜になる、

楽譜はひとつの
言語やていえるんやろか、

触覚は、
かたい、
やわらかい、
つめたい、
あったかい、

世界にそんざいする
いろんなもんを、
感覚どおりに分類できる、

世界のなかの
かたいもんだけ
あつめたり、
つめたいもんだけ
あつめたりできる、

それは抽象化してるて
いえるきいする、

もののかたさとかも、
これもほんらいは
グラデーションになってる、
あたたかさも、
水銀の温度計は、
まさにぜんぶの
温度はさかいめなく
つながってるんが
目に見える、

それをどっかで
人間が恣意的に
くべつする、
こっからは
あったかい、
こっからは
つめたい、

そうかんがえると
嗅覚も、
強弱ていう
抽象化は
できるようにもおもう、

つよいにおい、
よわいにおい、

でも
そう単純でも
ないらしい
ていうことをよんだ、

たとえば、
また
カレーやけど、

ひとの家から
カレーのにおいするとき、
それは

よわい、
よくわからんにおいから
はじまって、
だんだん
ああ、
なんとなく
カレーかな、
ああ、
カレーやな、
みたいなんやなくて、

においを
認識したときから
はっきり
カレーの
においするて
おもう、

たぶん、
においのもとの
物質の、
空間のなかの
分布は
グラデーションに
なってるはず
やけど、

あるとこから
はっきり
カレーてなる、

たとえばこれが
音やったら、
とおくに
なんか音がきこえてて、

ちかづいたら
あ、
なんか
ピアノの練習かなて
なって、

もっとちかづいたら
だんだん音が
おおきなってきて
はっきりしてきて
ピアノの練習て
わかって、

もし
じっさいその
家んなかに
はいったら
もっと
はっきり
ピアノのおとが
きこえる、

カレーのにおいは、
そういう
だんだん
カレーやて
わかってくていう
かんじがない、

でも、
においのもとが
どこにあるか
ちゃんと
わかったり
するわけやから、

においのもとに
じぶんが
ちかづいてる、
ていうかんじも
たしかにある、

せやからちゃんと
強弱も
かんじてるんかも
しれんのやけど、
よわいからって
ぼやけることがない、

視覚と聴覚と
触覚は、
存在せえへんもんを
かんじることがある、

視覚やと、
いろいろあるんやけど、
たとえば
補色残像
ていうんがある、

ある色の
なんかを
ずっとみたあと
なんもない
しろいとこみたら
いままで
みてたもんのかたちで
いままでみてた
色の補色ていわれる
色がみえる、

聴覚やと
ミッシングファンダメンタル
ていう現象がある、

複数の周波数のおとを
同時にきいたとき、
その複数の周波数に
最大公約数があると
その
最大公約数の音が
そんざいせんくても
そのおとがきこえる、

触覚は
皮膚うさぎていうんがある、

からだのあるぶぶんを
たとえばとがった
もんとかで
とんとんしたあと
10センチくらい
はなれたとこを
とんとんすると、
とんとんが
その2点のあいだを
移動してくみたいに
かんじる、
うさぎがはねてく
みたいに、

視覚と聴覚と
触覚は、
こういう、
その感覚のなかだけで
錯覚がおこる、

ほかの感覚がからむと
またべつの
錯覚があるんやけど、

その感覚だけの
影響でも
存在せえへん
もんをかんじる、

嗅覚にかんしては
こういうなんが
みつからへんかった、

あるんかもしれへんし、
これから
みつかるんかもしれへん、
でもいまは
みつからへんかった、

においの刺激だけで
存在せえへん
においを
かんじること、

視覚と聴覚と触覚は
量をはかれる、

音も色も
波長やから
その波長を
数字におきかえる
ことができる、

触覚も、
そこに
何キロの重みが
かかったとか、
はかれる、

せやから、
どういうときに
錯覚がどうおこるかが、
数字をつかって
せつめいできる、

にんげんが
どうかんじてるかは
まだ数字にできひんのやけど、

それができたら
にんげんとかわらん
AIをつくれるんやけど、

それはまだできひんくて、

でも、
なにをかんじてるかの
対象の、
その、
にんげんのそとに
あるもんは、
数字にできる、

においは現状
それが
むずかしいらしくて、

たとえば
色をかんじる
細胞は
3種類あって
それぞれ
赤と緑と青に
たいおうしてて、
それで
色をかんじてるんやけど、

においをかんじる
細胞は
400種類くらい
あるんやないかて
いわれてて、
しかも
それぞれが
におい物質に
たいして
一対一の対応やなくて、
一対一のも
あるんやけど、
複数の
においのもとに
対応してたりして、

そのくみあわせが
たくさんあるから、

なかなか色とか
音とか
温度みたいに
数字にできひん、

なんで光の三原色が
あるか、
みっつの
色をくみあわせると
いろんな色が
できるんかは、

にんげんのそとがわの
世界が
そうなってるんやなくて、

にんげんの眼の
色をかんじる
細胞が
3種類やから
そうなってる、

にんげんの感情も、
なんとか
はかれへんかなて、
いろんなひとが
がんばってきた、

とくに
ディープラーニング
みたいな、
学習するAIみたいなんに
にんげんの
感情を学習するさせよう、

そしたらいつか
にんげんの
感情が
はかれるように
なるんやないか、

いつか、
体温計で
体温はかるみたいに、

それは、

とくにいま、
リモートなんとかで、

モニターごしに
会話する機会がふえて、

にんげんは
モニターごしに
あいての感情を
よみとるんがにがてで、
じかに対面するより
感情がよみとりにくい、
みたいなことも
理由にされて、

画面をみたAIが
ひとの感情を
測定する場面が
増えようてしてる、

でも、
そういうときに、
AIにおぼえさす
そのデータを
どういうかたちで
はかってるか、

まず
にんげんの感情を
どういうかたちで
はかってるかていうと、

にんげんが
にんげんじしんの
感情をことばにする
ことからはじめる、

たとえば
こういう顔のとき、
その顔をしてるひとは
どうおもてるか、
その顔をみたひとは
どうおもうか、

そういうことの
データをたくさんとって、

ひとりのデータやと
ぶれがあるから、
それをたくさんとって、
分析する、

せやから、
感情そのもんが
そくていされてる
わけやないていうか、

体温やと、
体温をはかってるんやなくて、
ねつっぽいとか、
さむけがするとか、

で、
そんときに
そのコメントにたいして
数字をあてはめてく、
10段階で
じぶんの
体温を
いうてもらってもいい、

そういうデータを
たくさんとって、
数値として
体温をはかる
ほうほうを
えようてしてる、

みたいなかんじの
ことをしてはる、

まちがってたら
ごめんなさい、
ぼくの理解は
いまはこうです、

最終的には
AIが客観的に
感情をはかろうとして、

でも主観的なデータは、
たくさんあつめたら
それは
客観的なもんに
なるんやろか、

そもそもその、
たくさんあつめられて
平均化されたデータは、
いったいなんなんやろか、

抽象化、
ていえるんかも
しれへんけど、

でも、
たとえば、

感情の種類、
それがそもそも、
主観的すぎる、

つまり
色の、
赤とか
青とかは、
世界に
その色が
そんざいしてる
わけやなくて、

にんげんが
そうみてるだけに
すぎひん、

光とか
音は
世界に波として
そんざいしてて、

ある波長は
ある色やていう
対応は、
にんげんの
眼のなかの
細胞のなかにしかない、

ひとによって
おなじ波長の光でも
みる色がちがうんは、
たとえば
赤と緑の区別が
つきにくいひとが
いるように、

にんげんの、
そのひとのからだが
色をきめて、
その色を
世界から
抽象化して
とりだしてるに
すぎひん、

人間の感情も、

たとえば、

ある刺激にたいして、
脳がある状態になる、
ていう
その客観的な、

たとえば
血流の変化とか、
電気的な変化とか、
脳の状態の
変化は
そんざいしてる、

それをあつめていったら、
人間の脳の
変化の
客観的な
ひとそろいの
データができる、

でもそれにたいして、
それがなんなんか、
その状況が
なにに対応するんか、
ていうんは、
いまある
ことばで定義されてまう、

赤を
赤ていうように、

ある人間の
状態を、
いま
すでに
かなしみていう
ことばがあるから、
この状態を
かなしみ
ていう、

それはにんげんが
きめてる、

短歌をつくるとき、
かなしいを
表現するときに
かなしいて
言葉をつかわないように、
とか、
うれしいを表現するときに
うれしいていう
言葉を
つかわへんように、
とか、
いわれる、

それはつまり、

さいしょの
サピアの
ことばにもどる、

ことばは
個人的感情から
無該当なもんを
とりさったもん
でしかない、

ぼくも
そうおもう、

その、
ことばから
こぼれてった
感情を、
いまのAIは
ひろえへん、
そのこぼれてしもたもんは、
AIにとどく
ずっとまえに
こぼれてしまってる、

水の聖歌隊をよんで、

ぼくは
あるとき、

これは
世界にずっと
存在せえへん単語の
辞書なんやないかて
おもた、

そういうふうには
もうおもわへんく
なったけど、

なんていうんやろう、

すごい
たんじゅんな
いいかたに
なってまうけど、
まだ
ことばになってへん
なんかを
ことばにする、

それは抽象化ていう
手段やなくて、

その短歌は
せかいのその
なんかと
一対一でしか
対応してへんような、

世界の、
感情の、
ほんまのいみでの
写実、
そういうんが
たくさんのってる
本やなておもう、

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