第二回短歌ルチャリブレのテキスト

夕闇に浮かぶあなたの耳は貝
てらてら光る ちらちら光る
/奈都

開くものは見飽きないけどかわいそうにカスタネットのようなこころ
/笹川諒

しわしわのアスパラガスが言いました「酔うてはことをしそんじる」
/岡本拓也

から揚げの弁当なのにから揚げが少ないだけじゃなくて小さい
/朧さん

僕は所詮不廃物です恋人の夢の彼方でにおっています
/久保山ゆうと

赤ちゃんはどこから来るのと聞いてきた娘を大神殿へ連れて行く
/サラダビートル

おもいだす速度でゆれるわたくしのうしろすがたが駆けてゆきます
/鈴木秋馬

短歌、
こんかいも
ありがとうございます、
うれしい、

恐怖は、
たとえば、
シャワーのときに
めえつむるとき、
ぶつりてきに
なにかをされる、
行為やなくて、
だれかがいる、
つまり、
そんざいそのもんが
こわい、

恐怖ていうもんが、
そこからはなれるための、
からだのきっかけとして
あるんやとしたら、
それはたしかに
そうおもう、
刺されるとか、
そういう具体的な
行為のだんかいになると、
もうはなれるとかいう
どころやないから、

だれの
なんていう説か
わすれたけど、
幼児がことばを
おぼえるとき、
いや、
もののなまえを
おぼえるとき、
ものそのものでなく、
そのものをつかった
うごきにまず
ラベルをつけて、
それから、
それがものそのものの
なまえやと
移行してく、
たとえばボール
ていうラベル、
それはまず、
まるいもんを
なげるていう行為に
ラベルをはる、
そこから、
なげるていうことが
かんけいなくても、
そのまるいもんが
ボールていうんや、
ていうふうになる、
そういう説、

比喩ていうもんに
こまってたことが
あった、
あるじき、
にんげんいがいの
短歌ばっかり
つくろうとしたら、
けっきょく、
なんでもにんげんの
比喩みたいに
なってまうような、

たとえば
岡本さんの
しわしわのアスパラガスが、
あるにんげんの
比喩としてよまれる
かのうせい、
いや、
比喩として
つくったんかも
しれんけど、
アスパラガスを
にんげんととるか、
アスパラガスが
にんげんみたいに
はなすんか、
それはよんだひとの
こころが
どこにあんていするんかに
よるんやろか、

サラダビートルさんの
大神殿も、
比喩としてよまれる
かのうせい、
大神殿は
みぢかになくて、
みぢかな
なんかの比喩として
よまれるかのうせい、
みぢかにないから
不穏になってる
大神殿が、
みぢかななにかとして
みぢかに
回収されてまう
かのうせい、

ぎゃくに、
比喩が比喩である短歌は
その、
比喩の呪いの
ようなものから、
すでにかいほう
されてるんやろか、

奈都さんのとか、
久保山さんのとか、

比喩てなんなんやろう、
なんかとなんかを
あわせると、
べつのなんかができる、
現実的に、
それはよくあることで、
錬金術は、
化学にはってんした、

比喩はあわせてるんか、
なんであわせてるて
かんじたんか、

比喩はもののたとえ
やないんか、
でもたとえば、
辞書には
ことばの意味が
のってるけど、
意味のほうのことばの
意味はどうなってるんか、
もちろんそれも
辞書にのってるとして、
いみのいみのいみのいみの、
ていうふうにたどってくと、
最終的にどこにいくんか、

やっぱり、
比喩は、
あわせるみたいな
かんじ、
そうかんじる、
その、
なんかの説明やなくて、
その、
ふたつのことばの
あいだにできる、
なんか、

耳を貝にたとえる
ことでおこる
ちからのさよう、
そこからうまれることば、
じぶんを廃棄物に
たとえることでおこる
ちからのさよう、
そこからうまれることば、

笹川さんの短歌は、
いちどさいごまで
よんでしまって、
これはこころの
ことをゆうてるんやな、
てなると、
こころをひらく、
ていう慣用句が
あらわれてくる、
ひらいたら、
とじるから、
カスタネットがでてきて、
たしかに
とじるときに
おとがするこころは
かわいそう、

ことばのかたちが、
つぎのことばの
かたちをよんでくる、
それも、
かたちを無視した
つぎのことばでなく、
かたちが
つぎのかたちをよんで、
これはおどりのような
もんやておもう、
れんぞくした
おどりは、
その直前のからだの
かたちから
つぎがはじまる、
その、
かんじ、

朧さんのは、
唐揚げの弁当、
ていういいかたがすき、
唐揚げ弁当ていう
ことばでなく、
唐揚げ弁当のことを、
ひとつそとがわから、
あらためて
ことばにしてる、
ような、
唐揚げの弁当、
そのうえで、
そのお弁当の、
ことたりなさが
みつめられる、

唐揚げ弁当でなく、
唐揚げの、
てなるんは、
そこにまず
短歌の定型が
あったからやろうか、
5文字ていうかたち、
その、
かたちからの、
ことば、
それも
おどりのような
かんじなんやろか、

ひとの認知は、
共通してるようで
いがいとパターンがあって、
たとえば
ぼくは寝るまえ、
覚醒状態がおわるまえに
夢をみはじめて、
寝る、
ことにいぜん
きづいて、
これははっけんやと、
じつはにんげんは
そういうしくみなんやと、
なんにんかに
確認したら
ぜんぜん
共感されへんかった、

おもいだすていう
行為も、
ひとによっては、
映像のように
おもいだしたり
するやろう、
そうおもうと、
認知について
かかれたことは、
それはことばどおりに
そういうふうに
認知してるて、
そのまま
よむべきなんやておもう、

秋馬さんの短歌を
そうよむ、
そうよむと、
このなかで
いちばんシンプルに、
ただただ
かかれてるだけ、
認知そのもんが
かかれてるだけ、
それにたいする
こころのうごきもなく、
認知の、
うごき、
そのここちよさ、

大神殿は
やっぱり不穏やな、
おらへんところに
ひとがいるかもしれへん、
その恐怖みたいに、
大神殿があることが、
ただただ不安にさせる、
大神殿みたいな
こんなおおきいもんが
あったことを、
いままで
きいつかへんかったなんて、

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