創作の話

世界中には現在数多の物語が存在している。日本だけでなく海外の作品も高い評価を国内で得ている。小説、漫画、映画、ドラマなどさまざまな魅せ方があり、1つの作品がそれぞれに変化してビジネスとして発展している。
創り手側の作品を世に出す方法もここ十数年で大きく変わってきた。出版社に直談判したり、コンクールで賞をとるなどといった上の人間から認められないと作品を公表できない時代ではなくなった。それぞれがネットなどで作品を世間に出しそれが多くの人に評価されれば一気に拡散される。つまり一部の人間によって才能が潰されるということはなくなったのである。今まで埋もれていた作品が実力によって葬られることが少なくなった。これはとてもいい傾向だと思っている。
しかし溢れんばかりの作品を本屋に行かずとも簡単に手に取れる時代でもあるため、ありきたりの見たことあるようなストーリーでは多くの視聴者には届かないし響かない。

映画と原作

最近になって映画を鑑賞するようになった僕は邦画実写しか見ない。よく馬鹿にされる邦画実写だが僕はなぜか国内映画というジャンルに惹かれた。洋画やアニメなどに手を出そうという気持ちにならなかった。むしろ今僕はそれらを避けている部分もある。けして嫌いというわけではなく何か興味がわかなかいのだ。
邦画のほとんどには原作が存在する。それは小説であったり漫画であったり。たまにオリジナル脚本の映画もあるが僕はなかなかそういった作品に出会えていない。原作を知らない僕にとって映画化するという行為は本当に不思議なものである。原作で起承転結がわかっているのになぜそれを映像化するのか。原作をそのまま映画にコピーするだけの行為にどんな価値があるのか原作に疎い僕には到底理解できなかった。原作と大きく異なるものを創ればファンの人から怒られるし原作をそっくりそのまま再現するだけでは映画にする必要性がない。たくさんの映画を見ながら僕はいつもこう感じていた。周りの人に尋ねてみるとほとんどの人が「金になるから」と答えた。知名度のあるタイトルで映画館に行くハードルを下げる。映画は前払いなのでどれだけ文句を言われようと批判されようとお金を払った時点で収益は製作側に入るのだ。確かにそう言われると納得できる。しかしやはりもどかしい気持ちもある。ここで俳優の佐藤二朗さんのツイートを紹介しよう。2021年10月11日のツイートだ。

「正直言う。ここ10年、沢山の脚本を書いた。その殆どが日の目を見ない。理由は明らかだ。僕の力が足りないからだ。色んな意味で僕が足りないからだ。ただ大手に言われる。『ウチも大変厳しい状況なので有名な原作モノにシフトを…』。分かる。そら分かる。が、それで日本の映画界、いいのかい?マジで。」

僕はこの文章を見て共感しただけでなく感激を受けた。現役のトップアクターがこれほど本質的で根本的に日本映画を指摘したことに新鮮さも感じた。

こう思いながらも僕は今年映画館で映画を2本見た。「キネマの神様」と「護られなかった者たちへ」である。両方とも小説原作でありスタッフ、キャストともに豪華な面々で配給会社も力を入れた作品だ。
前者は2008年の12月12日に単行本が刊行されている。しかし映画の中にはコロナ渦のシーンも描かれていた。つまり原作にはなかった場面を挿入したのだ。
後者は全国14紙に連載された後2018年1月25日に販売されている。この作品には犯人が存在するのだが原作と映画でその人物の名前と性別が変わっている。
こういった原作をそのまま再現するというだけではなく映画版ならではの表し方というものもあり違いを出すことで原作を知ってる人でも楽しめるようにしているのだと思った。実際映画を見ていると、主人公が選択した道と別の道を描いてみたらどんな結末になるのだろうとか真逆のセリフを入れたらどんな違いが生まれるのだろうなど考えることがある。それはつまり1つの作品から多くのアレンジができるということだ。小説版と映画版、アニメ版で中身が変わる。そういった見せ方があってもいいなと思う。

しかし漫画やアニメを実写化するということになると少し気を付けなくてはいけないことが出てくる。それは原作を忠実にリスペクトして映画にするということだ。よくアニメファンからの批判が殺到している実写作品を目にする。どうしてもキャラクターとして確立されている人物を現実の俳優が「演じる」となると粗さやギャップが生まれてしまう。個人的には漫画やアニメは実写化してほしくないのだが前述のとおりお金ということを考えると確実に利益が見込めるということなのかもしれない。現に今年の実写邦画興行収入ランキングを見てみると1位は東京リベンジャーズで2位はるろうに剣心だった。どちらとも漫画原作の作品である。しかしこれらが評価された理由はやはり原作を忠実に、そして迫力を出す実写ならではの魅力が原作ファンからも認められたからだと勝手に推測している。僕は漫画やアニメは非常に疎いのでもしかしたら的外れだとお叱りを受けてしまうかもしれないが実写というジャンルでしか表現できない唯一無二の画が撮れるという邦画に希望が見えてきたと感じた。最後に映画監督として活躍されている奥山和由さんのツイートを紹介する。これは2021年11月23日のものである。僕の思いとも重なるものもあった。

「若い優秀な監督はひたすらオリジナルにこだわって創作センスを成長させきって欲しい。
売れっ子監督になると必ず人気コミックの映画化の話がくると思うが、そういうのはオリジナルが枯渇してからで十分。」

映画と文章

前述したように僕は映画を今年1年たくさん見たのだが原作を1つも読んでいない。数百ページある本を読むのが苦手ということが大きな原因なのだが映画を鑑賞していると、このシーンはどうやって文章にしていたんだろうなどと気になることがある。映画では視覚で内面や雰囲気を感じさせることができるけど小説だとそうはいかない。文章のみで読者に状況を把握させる必要があり推測させる必要もある。俳優の表情で気持ちを表すことができない。小説はそういった難しさがある。
僕も実は文章を少し書いているがその「文字で表わす」という部分で大きく苦戦を強いられている。頭に映像は浮かぶのだがそれを言語化し物語として変にならないように語らせようと思うとこれが案外大変だ。そこにプラスして先の展開ばかり考えてしまうので1つの場面が大雑把になりガタガタの作品に終始してしまう。主人公の目線でのみ語りを入れようとすると主人公の名前や性格を挿入するのに工夫を要するし会話の場面でもぎこちなく現実っぽくないセリフになってしまう。さらに場面設定が定まってなかったり細かい描写のアイデアが不足していたりして作業が進まず嫌になって創作が止まってしまう。(実際このnoteを書いていても方向性を見失い書く手が止まった)本当に情けない限りである。

作品を創作するということ

頭の中には物語のあらすじがある。矢印でそれぞれの出来事が繋がれている。しかしそこから作品にすることは工夫を必要とする。これは物語を創り始めてすごく感じた。点と点では結ばれているのにそれを線にし幅を持たせる作業が本当に未熟な僕にとっては難しい。骨格があっても中身がスカスカで箇条書きのような文章になってしまう。だから作品として駄作になってしまう。そういった経験から映画やドラマをみると簡単に批評できない。ネット上では不満や批判が噴出していても僕にはそれができない。それはしっかりと形になっていて物語として成立しているからだ。細かい部分で気になる点があってもそれを指摘できるだけの能力が僕には備わっていない。
創作をするということは自分なりの哲学を持っていないとなかなか難しい。順序だてができていて1つ1つのセリフを生かし自分がこの作品を通して伝えたいこと、表わしたいことが明確でなければ物語はブレブレのものになってしまう。だからこそこういった文章を書いている節もある。


最後に

僕は映画や日常に感化されて物語を描くようになった。しかし全くキーボードを打つ手が進まない。結局自己満足で終わってしまう。頭の中で思い描いた物語の骨格と実際に文章にしたときの物語があまりにも乖離しすぎていて僕の心は全く満たされない。映画を見ているとアイデアは浮かんでくる。それなのに形にする作業が全く進まない。浮かんだはずのアイデアはどこか遠くへ行ってしまい表現がいつもと同じようになり情けない自信を持てない作品になってしまう。理想と現実のギャップに絶望する。自分に満足することもできなくなった。
これではいけない。なにかを変えないといけない。そう思い作品を創るということ自体の構造を自分なりに噛み砕き書き殴ってみた。そのためまとまりのない読みにくい文章になっていることは僕でもよくわかる。それでもこれがこの創作の話の根っこなのかもしれないと感じた。