【テキスト版】巻3(8)有王島下(9)僧都死去

前回のあらすじ
鬼界島から赦されて、藤原成経と平康頼が京に戻ってきました。成経は元通り後白河法皇に仕えることになり、出家した康頼は執筆活動をすることになるのでした。


さて、そうやって鬼界島に流罪となった三人のうち二人は京に戻ることができたのだが、哀れなのは一人残された俊寛僧都である。

俊寛には、幼い時から身の回りの世話をさせていた童がいた。名を有王という。鬼界島の流人が京に戻ったらしいという噂を聞いて、有王は鳥羽まで行ってみたけれども、わが主、俊寛の姿は見えない。「特に罪が重いということで、島に残されたらしいぞ」という話を聞いて、ひどく悲しみ、清盛の住む六波羅あたりを歩き回って訊ねてみたが、いつお赦しが出るのか聞きだすことはできなかった。

有王は、俊寛僧都の娘が身を隠すように暮らしている所に行き、「今回お赦しが出なかったとのこと。こうなったら、どうにかして鬼界島に行って、お会いしてこようと思います。お手紙を預かって参ります」と言う。姫はとても喜んで、手紙をことづけるのだった。

両親に話せば許しは出ないだろうと、誰にも知らせず京を出発して、薩摩まで辿り着いた。薩摩では人々に怪しまれ、着ているものを剝ぎ取られもしたが、有王は少しも後悔することはなかった。ただただ姫からの手紙だけは届けたいと髻の中に隠して守るのだった。

商人の舟に乗せてもらい、鬼界島に到着してみると、かすかに伝え聞いていた様子どころではない。田もない、畑もない、村もない、里もない。人はいるけれど言葉もよくわからない。

有王はそれでも「ここに京から流罪となった俊寛というお人はおられるか」と聞いて回る。誰もみな「知らん」と答える中、ある者が「三人いたが二人は京に戻って、一人は残されて、あちらこちら歩き回っていたなあ。今はどうしているかわからないが」と言う。

山の方を尋ねて、峰によじ登ったり谷に降りたりして探したが、足跡も見つからない。海の方を探してみても沖の鴎や浜千鳥のほかは何も姿が見えない。

ある朝、磯の方から蜻蛉のように痩せ衰えた男が一人よろよろと出てくるのを見つけた。元は法師だったようで、髪は上の方に生えあがっているが、そこに海藻などが絡みついて、荊を被っているように見える。着ているものはボロボロで、何を着ているのかもわからない。片手には魚を持って、歩こうとしているのだろうがほとんど前には進んでいない。よろよろと動いているばかりである。

「京でも多くの乞食を見てきたが、ここまでひどい者をみたことはない。ここは地獄の餓鬼道なのか」と思うほどである。

その男がようやく近くまで来たので、「こんな者でもわが主・俊寛僧都のことを聞き知っているかもしれない」と有王は声をかける。「ここに京から流罪となった俊寛僧都というお方はおられぬか」

その男は有王の顔を見る。忘れもしない、幼い頃から召し使ってきた有王である。「私が俊寛だ」と言うと、砂浜の上に倒れ伏すのだった。

気を失ってしまった俊寛を有王は膝の上に抱きかかえ、「こんなにはるばると俊寛さまをお訪ねして参りましたのに、どうしてこんなにつらい目をお見せになるのですか」とさめざめと泣くと、俊寛は意識を取り戻し「本当にはるばるとよくぞここまで来てくれた。明けても暮れても京のことばかり思い出しているので、恋しい人たちの面影を夢に見ることもあるし、幻が現れることもある。こんなに弱り疲れ果ててしまって、もう夢なのか現なのかもわからない。有王、おまえが来ているのも夢なのだろう。ああ、この夢が覚めてしまったらどうすればいいのか」と泣く。

有王が「夢ではございません。現実でございます。それにしても、よくぞこんなになられても生き延びていてくださいました。」と言うと、俊寛は答える。「去年、成経殿と康頼殿だけが京に呼び戻された時、海に身を投げてしまおうと思ったのだ。だが、成経殿が『必ず連絡するから待っていてくれ』と言ってくれたので、それだけを頼りに…。しかし、この島には人が食べる物などなく、体力がある時には山に登って硫黄というものを掘っては九州からやってくる商人に売って食物に換えていた。だが、次第に弱ってそういうこともできなくなったので、今日のように穏やかな日は磯に出て釣り人に手を擦り膝を屈めて魚をもらい、潮が引けば貝を拾ったり海藻を取ったりして今までなんとか生き延びてきたのだ。」

俊寛がとりあえず家に戻ろうというので、有王は「こんなご様子なのに家はおありなのか」と不思議に思いながら、俊寛を肩にかつぐようにして、教えられるままに道を辿る。すると、松が一叢ある中に、芦と松の枯れ枝で作った粗末な小屋があった。これでは雨風をしのげるようにも見えない。京では4、500人もの人に囲まれておられた俊寛僧都のこの様子に有王は言葉を失うのだった。

業というものはいろんな種類があるものだが、俊寛僧都はずっと寺で生まれ育ち、一生の間に用いるものはすべて寺のもの、仏のものであった。仏からの布施を受け続けていたにもかかわらず、何の功徳も積まなかった罪がこのような業になってしまったのだろう。

俊寛は「去年、成経殿と康頼殿の迎えが来た時に、わしのところには誰からも文がなかった。こうしてお前が来てくれる時にも報せが全くなかったなあ」と言う。有王は涙にむせんでしばらくは返事もできなかったが、「俊寛さまが京を出られてから、役人が来て家財は没収、身内の方々も皆処刑されてしまいました。北の方は鞍馬の奥に身を潜められ、私だけが時々参ってお仕えしております。お子さまはずっと俊寛さまを恋い慕われて、鬼界島に連れて行ってくれと言っておられましたが、二月に疱瘡という病でお亡くなりになりました。北の方も、その後を追われるように…。今は姫御前だけが人目を忍んで暮らしておられます。お手紙を預かって参りました」と手紙を手渡す。

手紙を開けてみると、今年で12歳になるはずなのに文章も文面も幼く頼りなく、これで人の妻となったり宮仕えして独り立ちできるはずもない、と涙があふれるのだった。

「人目も恥じず、こうして何とか生き延びようと思ったのも、子どもたちや妻に再び会いたいと思っていたから。先立たれてしまってはもう何の望みもない。姫のことは気がかりだが、生き延びて面倒をかけるのも済まないしな」
と、俊寛は食事をとることをやめ、ひたすら阿弥陀仏の名を唱え、往生を願うのだった。

有王が鬼界島に来て23日めに、俊寛は亡くなった。37歳だった。有王は泣きながら俊寛を荼毘にふし、その骨を首にかけて九州に戻った。そして京の姫御前のところに行き、俊寛の様子を語って聞かせた。

姫御前は12歳にして尼となり、奈良の法華寺に入って父母の後世を弔ったということである。あわれなことだった。有王は、俊寛僧都の遺骨を首にかけたまま高野山に上り、奥の院に安置した後出家したという。

これほど多くの人々を悲しみの淵に突き落とした平家の行く末が恐ろしい。

【次回予告】
清盛の右腕、平家の良心、重盛が命を懸けて平家の安泰を祈ります。

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