【テキスト版】巻3(3)御産巻 (4)公卿揃

前回のあらすじ
中宮徳子の安産祈願で鬼界島から京に戻ることを赦されたのは藤原成経と平康頼の二人で、俊寛は島に置き去りにされてしまうのだった。


鬼界島を発った二人は肥前国鹿瀬に着いたとき、「年内は海が荒れるので春になってから出発するのが良い」と連絡を受けたので、そこで年を越すことにした。

11月半ば、徳子中宮が産気づかれたので、京じゅうがそわそわし始めた。お産みになるのは清盛の邸である六波羅だったので、後白河法皇も、関白や太政大臣以下重要な役職の貴族たちが集まってきた。

これまでも女御や后が出産される時には、恩赦が行われてきた。今回もそれに従って、重い罪を犯した者たちがたくさん許されたのだが、そんな中、俊寛僧都ひとりが赦されなかったということは、残念なことである。

皇子出産を祈願して、伊勢神宮や東大寺、興福寺など16か所で誦経があった。その行列といったら見事なものだった。

重盛殿は例のごとく大騒ぎをする方ではないので、その祈願から少し経ってから豪華な行列をつくり、馬を12頭贈られた。これは、中宮彰子の出産の時、父である藤原道長が贈った例にならったもので、重盛殿は徳子中宮の兄であり父親代わりでもあったので、道理にかなったことだった。

大納言藤原国綱卿も、馬を二頭献上した。伊勢神宮から安芸の厳島に至るまでの70余か所に神馬を、内裏にも数十頭献上した。人々は「忠誠心が深いのか、金が余っているのか」と噂しあっていた。

主要な寺の僧たちが焚く護摩の煙は御所じゅうに満ち、鈴の音は雲を響かせるほどである。修法の声には身の毛もよだち、いかなる物の怪も寄り付かない雰囲気だった。

それでも徳子中宮は陣痛に苦しむばかりで一向にお産がはじまらない。

清盛と妻の時子は胸を手で覆い、「ああどうしよう。どうしよう」とうろたえることしかできない。誰かが何かを話しかけても「ああ、いいようにしておいてくれ」と言うばかりである。清盛は「合戦の陣ならば、こんなに不安になることもないのに」と言う。

後白河法皇が、ちょうど熊野に行幸することになっていて、精進潔斎していたので、徳子中宮の御簾のそばに座り、千手経を読みあげた。すると、物の怪に憑りつかれて踊り狂っていた依巫の子どもたちが、にわかに静まり返るのだった。法皇は「たとえいかなる物の怪であろうとも、この私がいる限り近づくことはできまい。中でも今現れておる怨霊どもは、皆我が朝廷の恩を受けて一人前になった者。感謝の心をもちこそすれ、どうして邪魔などできようか。速やかに退くがよい」と言ったあと、「女人がお産で苦しんでいる時につけこむとは」と大悲呪を唱えると、安産となったばかりでなく、男の子がお生まれになったのだった。

「安産でございました。皇子のご誕生です」との声に、後白河法皇を始め、清盛や集まっていた殿上人、祈祷を捧げていた僧や修験者たちが一斉に歓声をあげるのだった。その声は邸の外まで響き、しばらくは静まることもなかった。

清盛は嬉しさのあまり、声をあげて泣いていた。重盛はすぐに中宮のそばに寄って魔よけと祝いの言葉を贈るのだった。

新しく生まれた皇子の乳母には、清盛の次男宗盛の妻をと決められていたが、七月に難産のため亡くなってしまったので、時忠卿の北の方が乳母に決まった。

後白河法皇は御所にお帰りになるために門のところに車をつけていた。清盛は嬉しさのあまりに砂金一千両、富士の綿を二千両、法皇に献上した。人々は「それはやりすぎではないか」というのだった。

今回のお産については不思議なことがいくつもあった。まず、後白河法皇がどの修験者よりも力を持っておられたということ。次に、后が出産するときには御殿の屋根から甑を転がすという風習があるのだが、皇子が生まれれば南に落とし、皇女なら北へ落とすことになっているのに、北に落としたのだった。人々が「どうしたことか」と騒いだのでやり直したのだが、「なんだか縁起が悪い」と口々に言うのだった。

可笑しかったのは清盛のうろたえぶり。見事だったのは重盛殿の振る舞い。気の毒だったのは弟の宗盛殿が最愛の妻に先立たれて大将の職も辞して家に籠っておられたこと。兄弟ともにこの場におられたらどれほどめでたかったか。

次に、七人の陰陽師が来てお祓いをしたのだが、その中の従者も少ない年寄りの陰陽師がいた。ちょうど邸には人がたくさんひしめき合っていたので「御用を務めるものでございます。通してくだされ」と人をかき分けかき分け入ろうとしていたところ、どうしたわけか右の沓をひっかけてしまい、よろけた拍子に冠を叩き落とされてしまった。これだけ混雑している所に、きちんと衣装を身につけた老人が、冠も被らずばらばらな髻でよろよろと出てきたものだから、若い殿上人たちは堪えきれずどっと笑うのだった。陰陽師などというものは、足の踏み場もないようなところでも宙に浮いたように移動するといわれている。にもかかわらず起きてしまったおかしな出来事を、当時は何とも思わなかったが、のちのち思い当たることが増えてくるのだった。

【次回予告】
清盛が安芸の厳島を深く信仰するようになったきっかけと、神仏の霊験の不思議さが語られます。



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