【テキスト版】巻1(3)鱸 (4)禿

忠盛はこうして鳥羽上皇に気に入られていったので、殿上人たちもやがて文句を言わなくなっていった。

忠盛が備前国から京へ戻ってくると、鳥羽上皇がすぐにお呼びになる。

「忠盛、そなたは今、備前の国守であったなあ。備前から京に上る時、歌枕として名高い『明石の浦』をとおって参ったのであろう。明石の浦はどのようなところであったか?」


「有明の月もあかしの浦風に浪ばかりこそよるとみえしか

しろじろと昇るはずの有明の月も、明石というだけあって明るく、ただ浦に吹く風に波が「寄る」ので「夜」なのだとわかるような具合でございました。」


咄嗟に詠んだ和歌なのに、掛詞や縁語を見事に使いこなしているものだから、鳥羽上皇もいたく感動して、この歌は後に「金葉和歌集」に収められることになった。


忠盛はまた、院の御所に勤める女房を愛していて通っていたのだが、ある時、この女房のところに月の描かれた扇を忘れて帰ったことがあった。

同僚の女房たちが
「これはどこから昇った月でしょう」
「気になりますわね」
と笑いあっていた。

すると、その女房は、

「雲井よりただもりきたる月なれば朧げにてはいはじとぞおもふ」

と詠んだので、忠盛はますますこの女房に惚れたということだ。ちなみに歌の意味は「雲の合間からただ漏れてきた月なので、はっきりとしたことは言えませんわ」というものだが、「ただもりきたる」の部分に「忠盛」という名前をはっきりと言っているのが粋なところである。

類は友を呼ぶとかいうけれど、忠盛もこの女房も歌を詠むのが得意な雅な人であった。

こうして、忠盛はやがて58歳で亡くなり、嫡男の清盛がその跡を継ぐことになった。

清盛が安芸守の時、保元の乱が起こり、そこで功績を上げた清盛は後白河天皇の信頼を手に入れた。播磨守に転任してから、続いて起きた平治の乱で再び大活躍。正三位に叙せられた。それから先は見るまに太政大臣まで上りつめたのだった。

清盛は武士に過ぎないので、武官としての位である近衛大将にはならなかったが、武器を賜り、随身を連れ歩くことを許された。牛車や輦車に乗ったままで宮中に出入りすることも許された。こういう待遇は武士に対しては考えられないことだった。

まるで摂政・関白である。太政大臣というのは、帝ひとりに対する師範として世に模範を示す者だ。適任の者がいないときには欠官とされる。清盛入道はその太政大臣となって日本全土を手のうちにおさめることになったのである。

そもそも平家がこんなに栄えたというのは、熊野権現のご利益だという噂である。

清盛がまだ安芸守だったときのこと。伊勢から舟で熊野にお参りに行くとき、大きなスズキが舟に飛び込んできた。案内人が「これはめでたいことです。召し上がれ」というので、清盛は熊野詣でのために、固く十戒を守って精進潔斎していたが、

「昔、周の武王の舟にも白い魚が躍りこんだというぞ」

と、調理をしてまず自分から食べ、家来たちにも与えた。そのためか、それからというもの、良い事ばかりが次々に起きた。清盛自身は太政大臣にまでなり、子孫たちの出世も竜が雲に上るよりも速かった。先祖たちの立場を軽々と超えて昇進していったのは本当にすばらしいことだ。

清盛は51歳の時に大きな病にかかり、そのため出家して入道となったのだが、その効果があったのか、病はたちどころに消えて、天命を全うした。

六波羅殿のご一家と言えば、肩を並べる者はおらず、清盛の妻の弟である平時忠などは「平家の人間で以外の者は人間ではない」などと豪語した。そのため、誰もが平家の人間と縁を結ぼうとしたし、烏帽子の被り方から衣装の飾りの付け方まで、何事も「六波羅風」とさえ言えば、みんなそれをまねるほどであった。

どんなに素晴らしい王や摂政・関白の時代にでも、時流に乗れなかった者たちが陰で集まって何となく悪口を言うというのはいつの世にもあることだが、清盛の最盛期には少しもそういう悪口は聞こえなかった。なぜかというと、清盛は14・5歳ぐらいの少年を三百人ほど選んで、髪をおかっぱに切り揃え、赤い直垂を着させて、召使として京じゅうを行き来させたからである。平家の悪口を言うものが居れば、その少年が仲間に伝え、家に押しかけて家財を没収し、その者を捕らえて六波羅へ連行してしまうのだ。なので、不満があっても口に出す者は誰もいなくなった。この少年たちのおかっぱ頭を「禿(かむろ)」と呼ぶ。

「六波羅殿の禿童だ」と言えば、道行く馬車さえ、避けて通るほどだった。この禿童は内裏に出入りするときにさえ名前を聞かれることもなく、役人すら恐れて目も合わせなかった。


次回予告。

「平家にあらずんば人にあらず」とまで言わせた平家の栄華とはどれほどのものだったかを簡単に見ていきます。




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