【テキスト版】巻2(8)新大納言被流【スキマ平家】

前回までのあらすじ
鹿谷での平家討伐の陰謀を知りながら知らぬ顔をしている後白河法皇に対する清盛の怒りを、清盛の長男重盛は懸命に説得し、抑えるのだった。

さて、流罪となった藤原成親だが、食事も喉を通らない。護送役の武士・難波経遠が車を用意し、早く乗るようにうながすと、仕方なく乗るのだった。

「ああ、どうにかしてもう一度重盛どのにお会いしたい」と思うが、それも叶わず、気づけば前後左右を武士たちに囲まれている。「私の味方は一人もいないのか。たとえ重罪で流罪になるとしても、ひとりぐらいは付き添いがいてくれるものではないのか」と車の中で嘆くので、武士たちもみな鎧の袖を濡らすのだった。

朱雀大路を南に下って行く。顔なじみの使用人や牛飼いまでもが涙を流してそれを見送る。まして京に留まる北の方や幼い子どもたちの気持ちはどれほどのものだろうか。

鳥羽殿を過ぎる時にも、「この御所に後白河法皇がいらっしゃるときには、必ずお供をしたものなのに」と思い出す。自分の別荘もよその邸を見るように通り過ぎて行く。鳥羽殿を過ぎたあたりで、武士は「舟はまだか」と急がしている。「私をどこへ連れて行くのだ。どうせ殺されるなら、京に近いこのあたりにしておくれ」と言うのが精一杯だった。

成親卿は護送役の難波経遠に「この近くに私を知っている者がいたら探してくれないか。舟に乗る前に伝えたいことがあるのだ」と言う。経遠はそのあたりを走り回って探したけれども、誰も成親卿と知り合いだという者はいない。成親卿は涙をはらはらと流して「わたしが世間で活躍していた頃には、付いてくる者が千人も二千人もいたのに、誰一人見送る者もいないとは悲しいことだ」と言うので、周りの武士たちはみんなもらい泣きをするのだった。成親卿に付き添っているのは涙だけである。熊野詣や四天王寺詣のときには、瓦葺きの巨大な三棟造りの船で二三十隻も連なって行っていたのに、今は幕を引いただけの粗末な屋形舟に乗り、見知らぬ武士たちに連れられて流されて行く。その思いはどれほど哀れなことだろう。死罪になるはずだったのを流罪に留めてくれたのは重盛の助命嘆願があってのことではあるが。

その日は摂津の国で泊まった。翌日、京から使者がやってきたと騒ぎになっている。成親卿は「ここでわたしを殺せとの知らせか」と聞くが、そうではなく、さらに遠くの備前国の児島というところまで連れて行けという指示だった。重盛からの手紙もあった。

「何とか京に近いところにでもお移しできればと言ったのですが、聞き入れてもらえず役立たずなことでございます。ですが、お命だけはわたくしが引き受けさせていただきましたので、ご安心ください。」と書いてあり、難波経遠にも「よくよくお仕えいたせ。決してお心に背くことなどあってはならぬ」などと書いてあり、道中の細々した気遣いも書かれていた。

成親卿は、これほどに思いを懸けてくれる重盛とも離れ、少しの間も離れたくないと思っていた北の方や幼い子どもたちとも別れてしまって、「これからどこへ行くのだろう。もう妻や子に会うこともできないだろう。今回は後白河法皇のお咎めではないはずなのに、どういうことなのだろう」と天を仰ぎ地に伏して泣き悲しんだが、どうすることもできない。

翌日には舟を出して下ってゆく。道中もただ涙にむせぶばかりで、命も尽きてしまうかと思われたが、そう簡単に命が消えるはずもなく、京は次第に遠ざかっていくばかり。やがて備前の児島に到着して、粗末な民家に入ることになった。後ろは山、前は海。磯の松風、波の音、どれも哀しみを尽きさせることはない。

【次回予告】
清盛の弟教盛の預かりとなったはずの、成親卿の長男成経までもが流罪となります。



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