【テキスト版】巻2(1)座主流【スキマ平家】

京の大火事を引き起こした比叡山に対し、朝廷は比叡山天台宗のトップ明雲座主の更迭を命じた。資格剥奪、本尊の返上、帝の無事を祈祷する役からも外した。

「加賀守であった藤原師高が明雲座主の領地を奪ったのを明雲座主が恨みに思い、大衆を先導して強訴させたのだ。」という西光法師の讒言を真に受けた後白河法皇は、明雲座主を厳罰に処すことにした。

検非違使が二人やってきて、明雲の住む寺の井戸に蓋をし、かまどの火に水をかけ、水と火を使わせないという「水火の責め」という刑を執行した。これに対し、比叡山の大衆たちが怒って、また京を襲撃するという噂が広がり、京の人々は恐れるのだった。

公卿たちが集まって、明雲に対する懲罰についての会議が開かれる。
藤原長方卿が、末席からではあったが、「これまでの法にのっとれば、死罪からひとつ軽い流罪となるようですが、明雲前座主は顕教と密教を学ばれ、行いも清く戒律も守られ、高倉天皇に仏教の講義もされ、後白河法皇に対してもたびたび祈祷をなさっておられます。このような方を重罪に処されたら、諸仏がどう思われるか想像もつきません。僧侶の資格を剥奪したり流罪にしたりということを少し緩めた方がいいかと」とおっしゃると、同席した公卿たちもそれに同意した。この藤原長方という方は、藤原定家の従兄に当たる人である。

後白河法皇のお怒りは強く、結局この意見は通らなかった。清盛も法皇に意見を述べるため御所に参内したが、法皇はお風邪とのことで会うことができず、清盛も不本意そうに帰ったということだ。

明雲は、僧侶としての資格を剥奪されたので、「藤井松枝」という俗名をつけられた。

明雲という人は、較べる相手もいないほど徳の高い、天下第一の高僧でおられるので、身分の上下を問わず人々に尊敬されていた。この人が天台座主になった時、延暦寺の中堂の宝物の中に一巻の文書があるのを見られたそうである。そこには、比叡山延暦寺開祖である伝教大師最澄が、まだ見ぬ未来の座主たちの名前を記しておられた。明雲座主は、自分の名前が書いてあるところまでを見て、そこから先は見ずに元通り巻き戻して納められたという。百年も前から天台の座主になることを約束されていたほどの貴い人だったが、運命からは逃れることができなかったのだろう。気の毒なことであった。

流罪で送られる先は伊豆国と決まった。西光法師の讒言によってこうなってしまったのだった。すぐにでも京から追放せよということで、役人たちが追い立てた。明雲は泣く泣く出発し、粟田口あたりに移動するのだった。

延暦寺の大衆は、「われらの敵は西光法師親子以外の何者でもない。」と、西光法師とその息子藤原師高・近藤師経の名を書いた紙を、延暦寺根本中堂の十二神将の足に踏ませ、「十二神将、七千夜叉、即刻、西光法師親子の命を奪いたまえ」と叫びながら呪詛した。恐ろしいことである。

同日、明雲は伊豆国へと出発した。このような位の高い僧が、木っ端役人にけりたてられるように京を追われるというのは、本当にあわれなことであった。

名残を惜しんで、ずっと粟津までついてきていた澄憲法印という僧に、明雲は長い間心に秘めておられた「一心三観の法」を伝授するのだった。これは天台宗の瞑想法のひとつで、釈迦から天竺の龍樹菩薩へと伝授された秘法である。この日本という辺境の地で、これほど穢れた末世において、澄憲法印はこれを受け継ぎ、京に帰ったのであった。澄憲法印はやがて法然や親鸞に大きな影響を与えることとなる。

さて、延暦寺では大衆が集まって話し合っていた。
「天台座主55代に至るまで、流罪などになったという話は聞いたことがない」

「桓武天皇が平安京を開かれ、伝教大師最澄がここで天台の教えを広められて以来、この山は女人禁制。三千人の清い僧侶だけが住んでおるのだ」

「峰には法華経を唱える声が長年絶えず、麓には日吉山の霊験が日々あらたかである。」

「ここ比叡山も京の鬼門にそびえる国家鎮護の霊地である」
「代々の帝や公卿たちもこの地で供養をしているではないか」
「末世だからといって、どうして比叡山を傷つけてよいものか」
「なんとなさけないことではないか」

と口々に叫び、大衆は京へと降りていくのだった。

【次回予告】
延暦寺の大衆はついに明雲座主を奪還します。


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