【テキスト版】巻3(15)法印問答【スキマ平家】

前回のあらすじ
平家一門の繁栄を祈って43歳で治療も拒み亡くなった重盛ですが、その行いはまさに聖人君子でした。

さて、頼りにしていた長男重盛に先立たれた清盛は、何かと心細く思ったのだろう、福原の邸に籠ってしまった。

11月初旬、夜に大きな地震があった。陰陽師のトップである安倍泰親は急いで内裏へと駆けつけ、「今夜の地震は占いによると軽いものではありません。一年以内、ひと月以内、一日以内に大変なことが起こると出ています。差し迫っております」と涙をほろほろと流す。取次の者も、顔色をかえ、高倉天皇も驚くのだった。若い公卿や殿上人は「何も起こるわけがない、あの泰親の泣き顔はどうも嘘くさい」と笑いあっている。

しかし、この安倍泰親という陰陽師は、安倍晴明から五代めの末裔として、天文学は真髄を極め、占いは極めて正確だった。一度雷が泰親に落ちたことがあったが、その時も狩衣の袖は焼けたものの無傷だった。とにかく滅多にいないほどの人間だったのである。

地震からまもなく、清盛が数千騎の兵を率いて京にのぼるのではないかという噂が立ち、騒ぎになった。また、誰が言い出したのか「清盛入道は天皇家を恨んでおられる」という噂も広がった。それは関白藤原基房の耳にも入り、基房は参内して「今回の清盛入道の目的はただひとつ、この基房を滅ぼすことでございます」と帝に言うのだった。高倉天皇もそれを聞くと「基房がそのような目に遭うのなら、わたしも同じ目に遭うだろう」と涙を流すのだった。

本来、天下の政治というのは帝と摂政によって行われるはずなのに、これはいったいどういうことなのだろう。

後白河法皇はたいそう驚いて、藤原信西の息子、静憲法印を使者として清盛のもとに向かわせた。「近年、朝廷は平穏でなく、人の心も調和がとれず、世間もだんだん落ち着かなくなっているのを、帝は何かにつけて嘆いておられる。清盛、そなたがいるのだから万事そなたを頼りにしようと思っているのに、何やら騒々しく、しかも天皇家を恨んでいるなどという噂を耳にした。これは一体どういうことか」という内容である。

静憲法印はその仰せを受けて九条にある清盛の邸に出向いた。朝から日が暮れるまで待ったが邸からは音沙汰がない。「やっぱりな」と思って法印は伝言だけ残して退出しようとする。その時清盛が「静憲法印を呼べ」と現れた。

清盛は言う。
「法印殿、わしの申すことは間違っておるだろうか。まず重盛が世を去ったことは平家一門の損失でもあり、わしはずいぶん涙をこらえて過ごしてきた。それはそなたにもわかっていただけるだろう。
保元の乱以後、世が乱れて落ち着かなかった時、重盛一人が身を粉にして働いてきた。帝の不安を和らげ、臨時の催しや政務など、あれほどの功臣はめったにいないと思う。

故事を引き合いに出すが、唐の太宗皇帝は、臣下に先立たれた悲しみのあまりに、自ら碑文を書き、墓に立てて悲しまれたという。わが国でも藤原顕頼が亡くなった時には鳥羽上皇がひどくお嘆きになって、石清水八幡宮への行幸は延期、管弦のお遊びもとりやめられた。臣下が亡くなれば、代々の帝はみなお嘆きになった。だからこそ、親よりも懐かしく子よりも睦まじいのは君主と臣下の仲である、というのだろう。

ところが、高倉帝は、重盛の喪もまだ明けぬうちに石清水八幡宮に行幸し、管弦のお遊びもなさる。お嘆きの様子ひとつお見受けできない。重盛の忠心をお忘れになっているとしても、なぜ子を亡くした親の悲しみをお憐れみくださらないのか。父子ともども、帝のお気持ちの中に存在をなくしてしまったことで面目を失ってしまった。これがひとつ。

次に、重盛の領地であった越前の国を孫の代まで安堵するというお約束をなさっていたにもかかわらず、重盛の死後すぐに召し返されたのは何の過失があってのことか。これがひとつ。

次に、中納言に欠員が出た時、二位中将藤原基通がしきりに希望していたのを、わたしが随分とりなしたのだが、結局承認されず、関白基房殿のまだ幼い息子師家を中納言にされたのはどういうことか。たとえわたしがいかなる無礼をしたとしても、一度ぐらいはお聞き届けくださっても良かったのではないか。まして、基通は本家の嫡男でもあり、その地位もとやかく言う余地もないのに無視されたことはあまりにひどいお計らいだと思う。これがひとつ。

次に、藤原成親卿以下側近の者たちが鹿谷に集まり、謀反を企てたことも、すべては後白河法皇のお許しがあってのこと。今さらではあるが、この平家一門を七代まではお見捨てになどできぬはずなのに、わたしが70歳に近づき、余命幾ばくもない時期になって、ややもすれば滅ぼそうとなさる気配がうかがえる。まして、このような状況であれば子孫たちが続いて朝廷に仕えさせていただくことは難しいだろう。老いて子を失うのは、枯れ木に枝がないようなもの。もう残り少ない現世のことを憂いても何も変わらないのだろうから、どうにでもなってしまえと思うことすらある。」

そう言って清盛は腹を立てたり涙を落としたりするので、聞いていた静憲法印は恐ろしくも哀れにも思われて汗だくになるのだった。

こんな時にはどんな人も返事ひとつするのが難しいものだ。しかも静憲法印も後白河法皇の側近として鹿谷に出入りしていたことも知られているので、今にも謀反の罪で捕らわれるかもしれないと思えば、龍の髭を撫で虎の尾を踏むような気持ちでいたが、肝の据わっている人なので少しも取り乱さず答える。

「ほんとうに長年お仕えしてこられた中では並々ならぬご苦労もおありだったでしょう。一度はお恨みになったのにも理由がおありでしょう。しかし、官位も俸禄も、あなたさまにはすべて満足するものではございませんか。つまりそれは、あなたさまの功績の大きさを法皇さまがお感じになっているという証でございます。法皇さまが謀反をお許しになっていたというのは、その謀臣たちの策略ではございませんか?耳を信じて目を疑うというのは、俗人の悪い癖です。朝廷から受けたご恩も他人とは格段に違うあなたさまが、つまらぬ者たちの戯言を重んじ、法皇さまに背こうとなさっているのは恐ろしいことでございます。およそ天の心というのは測りがたいもの。臣下として君主に逆らうことは、人臣の礼を外れるものでございます。よくよくお考えください。わたくしはこれより戻って、あなたさまの思いをお伝えすることにいたします」

そう言って邸を後にしたので、その場にいた人たちは「すごいものだ。清盛入道があれほどお怒りだったのに少しも取り乱さず返事をして戻られた」と静憲法印を褒めない者はいなかったという。

【次回予告】
気持ちが収まらない清盛は、たくさんの貴族を更迭、追放してしまいます。




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