【テキスト版】巻4(1)厳島行幸【スキマ平家】

【前回までのあらすじ】
清盛は長男重盛の死後の朝廷の対応に不満を募らせていました。それはやがて大量の公卿たちの左遷や流罪、後白河法皇の軟禁へとエスカレートしていきます。後白河法皇を慕う高倉天皇と、清盛の間の溝は深まるばかりです。

年が明けたが、後白河法皇のいる鳥羽離宮には誰も年始の挨拶に訪れる者はいない。亡き藤原信西の息子たちだけが許されて参賀に訪れるのだった。

1月20日になって、清盛の娘徳子が産んだ皇太子の袴着とお食い初めというめでたい儀式が行われたが、法皇は鳥羽離宮でそれをよそ事のように聞くだけだった。

2月末、高倉天皇はご病気でもなかったのだが、無理矢理退位させられ、皇太子が皇位を継承することになった。これも清盛が思い通りに物事を運ぶための策だった。平家の人々は、沸き立っていた。

皇太子に三種の神器をお渡しする儀式も、古いしきたりにのっとって行われたが、心ある人たちは「自ら位を譲られ隠遁生活をお送りになるのも寂しいものなのに、ましてご自分の意思でなく退位させられるお気の毒さよ」涙を流し心を痛めていた。

三種の神器や宝物などを役人たちが受け取って、新しい帝の皇居へ移す。高倉天皇の邸では火影がかすかに揺れ、時を告げる役人の声もやみ、警護する滝口の武士たちの点呼も聞こえなくなってしまったので、このようなめでたい祝いでありながら、その哀れさに涙を流すのだった。

新しい帝は安徳天皇。今年3歳。「なんとも早すぎる譲位だ」と人々はささやきあった。

徳子の兄である平時忠は、安徳天皇の乳母の夫でもあるのでそれに反論する。
「異国においては、周の成王が3歳、晋の穆帝が2歳、我が国では近衛天皇が3歳、六条天皇が2歳で即位していて、皆産着姿で装束も正しくは着ることができなかったが、摂政が負ぶって即位したり、母后が抱いて政治をしたと古い書物には書かれている。後漢の殤帝は生まれて百日で皇位を継承したという。天子が皇位継承する先例は和漢このようなものだ」
この平時忠という人は、「平家にあらずんば人にあらず」と言い放った武将でもある。

故事に詳しい人々は「恐ろしいことを申されるな。ならばそれらは良い先例でございましたか」とささやき合うのだった。

皇太子が即位されたので、清盛は夫婦共に外祖父・外祖母として准三后という帝に次ぐ待遇の宣旨を受け、まるで院の御所のように華やかな生活となった。

その年の春、退位した高倉上皇が安芸の宮島に参詣されるという噂が流れた。天皇が譲位されて後の御幸は石清水八幡宮、賀茂神社、春日大社のいずれかに参られるのが通常なのに、はるばる安芸国まで行かれるとはどういうことかと人々は不審に思った。ある人は「白河上皇は熊野権現に参詣されたし、後白河法皇は日吉神社に参詣されたのだから、これも高倉上皇ご自身の意思だろう」と言うし、またある人は「平家が安芸の宮島をとても崇めているので、清盛入道の機嫌を取ろうとなさっておられるのだろう」と噂した。

延暦寺の大衆は憤慨し、「石清水八幡宮、賀茂神社、春日大社のどれかに行幸されないなら我らが比叡山に参詣なさるのが筋であろう。安芸国へ参られるとはどういう了見か。神輿を振り下ろし奉って妨害するぞ」と言うのだった。これによって、しばらく行幸は延期となった。清盛があれこれなだめたので、何とか延暦寺の大衆の怒りは収まった。

高倉上皇は宮島の厳島神社に参詣するついでに、鳥羽殿に立ち寄って後白河法皇に会おうと思っていた。「清盛に知らせないと具合が悪いだろうか」と清盛の息子宗盛に相談すると「問題はないでしょう」ということだったので、鳥羽殿に連絡をした。後白河法皇は夢にも思っていなかった高倉上皇の訪問をとても喜ぶのだった。

高倉上皇が訪れた鳥羽離宮には人もほとんどおらず、木は茂って薄暗く、物寂しげな様子だった。

後白河法皇はすでに寝殿で待っていた。高倉上皇は今年二十歳。明け方の月の光に映えた姿はとても美しく、母君である亡き建春門院によく似ていた。後白河法皇は亡き妻のことを思い出し涙を流すのだった。二人は久しぶりの再会を語り合って過ごした。

日も高くなってきたので、お別れを告げて高倉上皇は船にお乗りになる。父は子を、子は父を気遣いながらの船出だった。はるばる安芸国まで参詣される気持ちを神様が汲んでくださらないはずがない。高倉上皇の願いは必ず叶うだろうと思われた。

【次回予告】
高倉上皇は無事に都に戻ってきます。そして安徳天皇の即位です。


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