【テキスト版】巻1(3)許文【スキマ平家】
前回までのあらすじ
鬼界島から海に流した卒塔婆が後白河法皇や清盛にたどりついたことは、漢の時代に雁に手紙を託した蘇武のエピソードとよく似ている。時代も場所も違っているが、故郷を思う気持ちは同じだということか。
正月になり、高倉天皇は後白河法皇に年始の挨拶に行く。毎年恒例の行事ではあるが、去年の夏、新大納言藤原成親をはじめとして多くの人々が流罪となったことで、後白河法皇の腹立ちは収まっていなかった。清盛は清盛で、多田行綱から後白河法皇に謀反の気持ちがあるということを聞いて以来、法皇を深く信用することはせず、苦笑いばかりして過ごしている。
正月の七日、彗星が東の空に現れた。蚩尤旗とも赤気とも言う。これは現代の研究ではオーロラではないかと言われているが、当時は良くないことの前兆とも捉えられていた。
18日になるとさらに光が強くなった。清盛の娘の建礼門院徳子は、その時はまだ中宮であったが、体調が悪いということで、宮中も世間も心配していた。あちこちの寺で読経が始まり、神社にも使いが立てられる。陰陽術を極め、医師は薬を作り、いろんな方策を余すところなく施してみるのだが、まったく具合が良くなる様子はなかった。懐妊しておられたのだった。高倉天皇は今年18歳、中宮徳子は22歳だったが、まだ皇子も姫も誕生しておらず、平家の人々は「どうか男の子が生まれてほしい」と大喜びするのだった。平家以外の人々も、平家の繁栄の様子を見ていると皇子が誕生するのは間違いない、と言い合った。懐妊ということがはっきりしたので、清盛は位の高い僧に、皇子誕生を祈願させるのだった。
半年して腹帯をつける儀式が行われた。ここでも皇子誕生の祈願がされるのだが、徳子中宮は月を重ねるに従って苦しそうになるのだった。一回ほほえめば百のなまめかしさを醸したという漢の武帝の李夫人が病に伏された時もこのような感じだったか、唐の楊貴妃が嘆きに沈んだ時の、梨の花が春の雨に濡れているような、芙蓉の花が風に萎れているような、女郎花が露の重さにうなだれているような様子、それよりもなおつらそうであった。
このような苦しみに付け込んで、物の怪どもがたくさん取り憑いた。それらはそれぞれ、崇徳上皇の霊、藤原頼長の怨念、藤原成親の死霊、西光法師の悪霊、鬼界島の流人たちの生霊pなどと名乗るのだった。そこで、生霊も死霊もなだめるために、官位を授けたり供養をし直したりするのだった。
清盛の弟教盛は、それらのことを伝え聞くと、重盛に「徳子中宮さまのお産のご祈祷がいろいろ行われておりますが、なんと言いましても恩赦以上のことはないでしょう。特に、あの鬼界島の流人たちをお赦しになるほどの功徳が他にあるでしょうか」と申し上げる。
重盛は父清盛のところに行き、「教盛さまが、鬼界島に流罪となっておられる成経殿のことをお嘆きになるのがお可哀想でなりません。ことに、徳子中宮さまがあれほど悪阻で苦しんでおられるのは成経殿の父成親卿の死霊のせいだとも噂されております。ここは生きておられる成経殿を呼び戻されてはいかがでしょう。悪い噂をお止めになって、人の願いをお聞き届けになれば、願いも成就してきっと安産、皇子がご誕生になり、平家の栄華もいよいよ盛んになろうかと存じます。」と言う。
清盛もそれを聞いて機嫌よく「俊寛と康頼はどうしようか」と答える。重盛は「それも同じく呼び戻されるのがよろしいかと。一人でもお残しになると恨みが残ると思います」と言う。清盛は「康頼はそうだな。しかし、俊寛はわしが随分世話をしてやって一人前になったにもかかわらず、鹿谷で納得のいかぬ振る舞いに及んだのだから、許すことは考えていない」と言うのだった。
重盛は自分の邸に戻り、教盛に「成経殿はお赦しになられるようですよ。ご安心ください」と告げる。教盛は泣きながら手を合わせて喜ぶのだった。
清盛は赦免状を書いて、使いの者を鬼界島に出発させた。教盛はあまりの嬉しさに自分の使いも同行させ、「昼夜を忘れて急いでまいれ」と言うのだった。
【次回予告】
京に戻る許可が下りたのは二人。残されることとなった俊寛の嘆きは激しいものでした。