【テキスト版】巻1(5)我身栄花(6)二人后【スキマ平家】

巻1の5「我身栄花」

清盛だけが栄華を極めただけでなく、平家一門がみんな繁栄した。長男の重盛は内大臣左大将、次男の宗盛は中納言右大将、三男知盛は三位中将、孫の維盛は四位少将となった。

平家一門で、公卿が16人、殿上人が30数人、諸国の長官となったものが60人あまり。世の中には平家以外に人材がいないかのように、重要なポストには平家の人間が就くのだった。

奈良時代、大仏を建立したことで有名な聖武天皇の時代から数えても、兄弟で右大将と左大将になったのはわずかに3・4回ぐらいしかないが、そのいずれもが摂政・関白の子どもであって、並みの家柄でこんな例は存在しない。

殿上人たちがあれほど蔑んでいた忠盛の子や孫が、きらびやかな衣を身に纏い、兄弟で左右の大将となって肩を並べるなど、末世だとはいえ、不思議なことである。

清盛には他に娘が8人いたが、その娘たちもそれぞれ帝や摂政や大臣の妻となり、たくさんの子どもを産んだ。

日本国内66か国のうち、平家の支配する国は30数か国。すでに半数を超えている。その他、所有している荘園や田畑は数知れない。

清盛の住む六波羅殿は、きらびやかさが満ちていて、花園のようだった。貴族たちの車がひっきりなしに集まり、財宝にも欠けたものがない。帝がおられる御所も、院のおられる御所も、清盛の邸には及ばないほどだった。


巻1の6「二代后」

昔から今に至るまで、源氏と平氏はどちらも朝廷に召し使われていて、帝に従わない者に対してはお互いに制裁を加えていたので、世が乱れることもなかったのだが、保元の乱で源為義が斬られ、平治の乱で源義朝が殺されてからは、源氏の者たちは流罪になったり処刑されたりして、今や平家一門だけが繁栄するようになっていた。

鳥羽上皇が亡くなった後は戦乱が続き、国内も穏やかではなくなった。後白河法皇の側近を二条天皇がたが懲戒なさったり、二条天皇の側近を後白河法皇がたが懲戒なさるといったことが行われ、人々は恐れおののき、心休まることがなくなってしまった。後白河法皇と二条天皇は父と子であったが、二条天皇は何かにつけて後白河法皇に逆らっておられたのだった。

後白河法皇の兄にあたる近衛天皇は17歳で亡くなられ、その后は宮中を離れて近衛川原の御所に住んでおられた。近衛天皇が亡くなった年に後白河が天皇として即位、その3年後には自分の息子である二条天皇に譲位して、後白河は院として政治をすることになった。二条天皇は15歳、後白河院は29歳だった。ところが、宮中は二条天皇派と後白河法皇派にわかれて、どちらが主権を取るかで小競り合いが続くようになってしまったのだった。

そして翌年のことである。二条天皇は、自分の義理の伯母にあたる近衛天皇の元后に恋文を送る。元后はまったく取り合わなかったが、二条天皇は元后が自分の后として宮中に入るよう、宣旨をくだすのだった。

亡くなったとはいえ前の天皇の后をもう一度自分の后にするなど前代未聞のこと。公卿たちの会議でも反対意見が相次ぎ、二条天皇の父、後白河法皇も、それはよくないことだと説得する。しかし二条天皇は「天子に父母なし。私は功徳によってこの位についているのだ。これくらいのことが思い通りにならぬ道理はない」と、すぐさま入内の日を決めて宣旨を下すのだった。

(少し補足をします。二条天皇は、鳥羽上皇の后に養育されていて、父の後白河法皇と違う勢力の後ろ盾を持っていました。そしてその後ろ盾の中には、鳥羽上皇に可愛がられていた平忠盛や息子の清盛がいたのです。この后をめぐるトラブルも、二条天皇派が後白河法皇派をねじ伏せて主権を手にするデモンストレーションだったとも言われています。)

次回予告

二条天皇が若くして亡くなります。興福寺と比叡山のいさかいも起こり、京の町は乱れていきます。

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