【テキスト版】巻1(11)殿下乗合(12)鹿谷【スキマ平家】

巻1(11)殿下乗合(てんがののりあい)

二条天皇派と後白河法皇派で政治の主導権の取り合いが行われてきていたが、二条天皇が若くして亡くなり、六条天皇は5歳で譲位、次の高倉天皇もまだ8歳であったことから、後白河法皇派が政治の主権を取りつつあった。また、平清盛たちも後白河法皇との関係を濃くすることで政治の中心にいつづけていた。

しかし、後白河法皇は内心、清盛の昇進を快くは思っていなかった。前九年の役や後三年の役で功績を挙げた武士たちもせいぜい受領という地方長官を任させる程度だったのに、清盛がここまで自分の思うままに過ごせるのは、やはり世が乱れているからだと思いはするものの、きっかけがないので懲戒を出したりすることもできなかったのである。

平家もまた、別に朝廷をお恨みすることもなかったのだが、世が乱れ始める原因が起きたのは、ちょうど清盛の長男重盛の息子で、当時13歳だった資盛(すけもり)が、若い侍を30人ほど連れて鷹狩にでかけ、夕方六波羅に帰って来た時の話である。

当時の摂政だった藤原基房公ご一行が内裏からお帰りになるのと、資盛一行がばったり出くわしてしまったのだった。基房公のお供の人々が「すぐに乗り物から降りよ、失礼だぞ」と言うのを、思いあがっていい気になっていた資盛とまだ二十歳にもなっていないお付きの若者たちは、馬から降りることもなく突っ切って走り抜けようとしたのだった。清盛の孫だと知っていたのか知らなかったのか、とにかく、資盛はじめ全員が馬から引きずり落とされ、さんざんの辱めを受けてしまったのだった。

資盛は這うようにして六波羅に戻り、清盛にこのことを話す。清盛は大いに怒って、「たとえ摂政であろうと、わしの周囲の者には配慮するべきなのに、まだ幼い資盛にこのような恥辱を与えるとはどういう了見だ。こんなことがきっかけで人に侮られることになるのだ。このことは思い知らせてやらねばならぬ。」と言うが、重盛は「父上、このようなことは少しも腹立たしいことではありません。同じ武士である源氏の頼政や光基などに侮られたなら平家一門の恥ともなりましょうが、わたくしの息子でありながら、摂政基房さまがお出ましなのに乗り物から降りないということこそが無作法なことだったのです。」と言うと、資盛と、そのお供の者たちを呼び、「おまえたち、今後はこういうことのないよう、よく心しておけ。私はこれから摂政基房どのに無礼を謝ってくる」と言うのだった。

その後、清盛は重盛に相談もせず、田舎侍の強そうな者を60人ほど呼び寄せて「高倉天皇の元服の打ち合わせで摂政基房が内裏に出かける時、どこでもいいから待ち伏せて家来どもの髷を切り落とし、資盛の屈辱を晴らせ」と言う。

摂政基房はそんなことは夢にも知らず、内裏へと向かった。清盛に命じられた侍どもが300騎余りも待ち伏せていて、正装している基房の家来たちを追い回し、引きずり回し、髷を切り落としていく。切り落とすときに「これはお前の髷だと思うなよ、主の髷だと思え」などと言いながら切るのである。基房公が乗っている車の簾をむしり取り、車を曳いている牛の綱を切り捨てるなど、さんざんの狼藉を働いて六波羅に引き上げていくのだった。清盛は「よくやった」とご機嫌である。

これが平家の悪行のはじめと言ってもいいかもしれない。

重盛は驚いて、「父上がばかげた指示を出されたならば、私に報告しなければいけないとは思わないか」と、その狼藉に加わった者はみんな追放してしまった。そして息子の資盛には、

「栴檀は双葉より芳しというではないか。12・3歳にもなれば、礼儀ぐらいわきまえて当然なのに、こんなたわけた真似をして、父上の悪名を立てるとは親不孝にもほどがある。原因はおまえひとりにある!」と言って、しばらく伊勢の国に追放することにした。それで、この重盛のことはみんなが感心したという。

巻1(12)鹿谷

そんなことがあったので、高倉天皇の元服の式典は延期されたが、年末には改めて宣旨があり、摂政藤原基房公も、太政大臣に昇格した。年が明けて元服の儀が執り行われ、清盛の娘・徳子が女御として入内した。徳子はその時15歳であった。

3年後、左大将の辞任に伴って、次期左大将が誰になるか世間はざわついた。左大将の候補だとされる人は三人いたが、特に藤原成親卿は熱心に左大将の座を欲しがった。後白河法皇に可愛がられていたので、それを笠に着て、左大将の座を獲得できるよう、さまざまに祈祷を行うことになった。

まず石清水八幡宮に百人の僧を籠らせ、大般若経を7日間読経させることとした。すると、その祈祷の最中に、山鳩が三羽飛んできて、突き合って死んでしまった。鳩は八幡大菩薩の第一の使者である。この石清水八幡宮でこのようなことは今まで起きたことがない、と内裏に申し上げると、後白河法皇も「これはただごとではない」と占ってみることになった。占いの結果は「深く慎むこと」と出た。「ただし、帝や院が慎むのではなく、臣下の慎みのことである」と出たのだった。成親卿が不遜な昇進を望んでいることを指していたのだろう。

成親卿はそんなことがあったが恐れることもなく、昼は人目が多いので夜な夜な歩いて烏丸の屋敷から上賀茂神社へ、七日続けてお参りをするのだった。七日目の夜、屋敷に戻ってから少しまどろんでいると、夢に上賀茂神社らしい場所があらわれ、その中から気高い声でこう歌うのが聞こえてきた。

「さくらばな賀茂の川風うらむなよちるをばえこそとどめざりけれ」

「桜の花よ、わたしをうらむでないぞ。わたしの力ではそなたの昇進をとげさせてやることはできない」

成親卿は、それでも恐れることなく、上賀茂神社の杉のほら穴に祭壇を建て、徳の高い僧を籠らせて百日間の祈祷を行わせた。神社に僧を送り込むという無謀なことをしたのである。

すると、一天俄かに書き曇り、雷がその杉の木に落ち、木が燃え上がり、まるで宮中が炎上するように見えるのだった。上賀茂神社の神官たちが火を消し止めてみると、僧が一人祈祷を続けている。「この者の祈祷が神の怒りに触れたのだ」「祈祷をやめなさい」と言うが、この僧は「まだ75日目だ。私は百日の祈祷を成し遂げなければならぬ」と動こうとしない。しまいに神官たちはこの僧をさんざんに打ち据え、追放してしまった。

神は度を超えた無礼な願いはお受けにならないというが、この成親卿も身分不相応な願をかけたせいか、こんな不思議なことが起こったのだった。

その頃の昇進については、後白河院の思う通りにもならず、摂政関白の思う通りにもならず、ただひとえに平家の思うままだったので、結局、清盛の長男重盛が左大将に、次男宗盛が数人の上級貴族を飛び越えて右大将になった。これにはみんな呆れて言葉も出なかった。

さて、あれほど願をかけていた成親卿は、「徳大寺や花山院に先を越されたのなら諦めもつくが、清盛の次男の宗盛なんぞに追い抜かれたのは納得できぬ。どうあっても平家を滅ぼして恨みを晴らしてやりたい」と言ったとかで、それはまた恐ろしいことであった。成親卿のお父上は、同じ年齢の時に中納言までしか昇進できなかったのだが、成親卿は末っ子だったにもかかわらず正二位大納言にまで上がり、たくさんの国もいただいていたのだから、それを恩に思っても何の不足があっただろう。これは魔が差したとしかいいようがない。平治の乱の時にも、一歩間違えれば処刑されていたのを、重盛殿がいろいろと取りなしたおかげで首が繋がっているにもかかわらず、陰で軍備を整え、兵を募ったりするのだった。

東山の鹿ケ谷というところにいつも集まって、平家を滅ぼそうと謀略を巡らせていた。あるとき、成親卿を可愛がっておられた後白河法皇もそこにいらっしゃった。浄憲(じょうけん)法印がお供である。酒盛りをしながら、平家討伐の計画を話しているのを聞いて、浄憲法印が「このように人が大勢いるところでそんな話をなさって、外部に漏れたらどうなさるのですか」とたしなめる。成親卿はそれを聞くとサッと顔色を変えて慌てて立ち上がった。立ちあがる時、後白河法皇の前の徳利を袖に引っ掛けて倒してしまう。法皇が「どうしたのだ?」とお尋ねになるので、成親卿は「へいじが倒れてしまいました」と答える。

後白河法皇は笑って「みなのもの、猿楽を舞って見せよ」。平康頼がさっと立ちあがって「ああ、あまりにへいじが多くて、酔っ払ってしまいました」と言う。俊寛僧都が「さてさてそれではどうすればいいか」と言うと、西光法師が「首を取るのが一番でござろう」と、へいじの首をもぎ取って奥に入ってしまった。

浄憲法印は、このあまりのふざけ方に何も言えなくなってしまった。まったく恐ろしい出来事であった。



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