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人を失う時、己を知る時

失敗と言えるほど「目的」はあったのか

ぼくには、とても苦い思い出があります。今でも思い出すたびに、「ああ、時間は巻き戻せない。二度ともとにはもどらない。」と胸がえぐられます。

さて、失敗について書こうと思ったらちょっとひっかかることがありまして、辞書を調べました。

失敗とは「目的が達せられないこと」とありました。

何がひっかかったかというと、「目的」という言葉です。

彼女にふられてしまったことを書こうかなと思ったけど、「でも本当に彼女と結婚したかったのかな。何か目的があったのかな。」とおもってしまったり。

日本二周という旅の終わりは特に達成感もなく、むしろその次が何も見えなくなって人生のトンネルに入ってしまいましたが、はたして「目的があったのか」と考えるとないし、二周をするという目的なら、したのだから失敗ではないのかなとか。

通販で注文したものが届かず、お金だけとられてしまったというのは失敗だけど、取り上げるほどじゃないなとか。

作業ややり方で失敗したことは山ほどあるけど、そんなことを書いても面白くありません。

つまり、ぼくに目的があって取り組んだことで、失敗したことはあるのか?と手が止まってしまったんです。そして失敗だとしてそれが今に生きているほど大きなものはあるのか?

「自分がどうしてもこれをしたい、達成したい」ことが実はよく分からない人間だなと自分のことを思います。

大親友を失ったこと

「友達でい続けられること」は「目的」というには冷たいものです。

ですが「失いたくないものを失った」という心をえぐられる思い出をお話します。

ぼくには大学時代親友が一人いました。

親友と言っても高校時代の部活の一つ下の後輩だったから、高校時代は上下関係もあるし全然つるんでませんでした。

それがなぜか卒業してから意気投合します。

何がきっかけだったか、もはや思い出せませんが、当時ビリヤードにはまっていて、夜0時くらいから朝まで二人でよくやっていました。

夜になると電話して「今から遊ばない?」「いいよー」という感じで、ぼくは中古で買った車を萩山まで走らせ、国分寺のビリヤード場によく行ってました。

当時はまだ飲酒運転の取り締まりが緩く、というか世間一般の感覚として飲んでも運転するというのがわりとおかしくないことでした。

ボーリング場のならびのお店のシャッターの前に車をとめ、酒を飲みながら朝までビリヤードして運転して帰る。そんなことをよく二人でしていました。

彼はフリーターだったのでぼくが暇があれがいつでも一緒に遊びにいけたし、大学の授業さぼって平日のすいている原宿や代官山に二人で買い物に行ったり、お互いの彼女を連れてダブルデートしたり。

メッセンジャーという会社間の書類の配達をするアルバイトを一緒にしたこともあったし、フリーマーケットをいっしょに開いたこともありました。

なぜ気があったのかなあ。

お互い自分のいる社会になじまない人間だったのだと思います。

ぼくはぼくで大学に入ったものの、夢を感じないまわりの人間に物足りなく、批判的でとがったものの見方をしていました。

その延長で音楽をはじめ、アジア放浪、日本二周という旅にも出ますが、そちらについては日本二周の小説をぜひ読んでください。

当時のぼくは法学部に入ったものの、やっぱり医学部行きたいとか、英語をマスターしたいとか、ものづくりの道に進みたいとか、かなり迷走していました。

かれはかれで進学校だった高校の雰囲気やまわりの人間になじめず、まわりの99%が大学にいくところを行かずに、独自の道を進んでいました。

バーテンダーや消防士になりたいと言って、未来を模索していました。

ぼくは同じ高校に行っていたのでその気持ちがよく分かり、ぼく自身何も考えずに高校に行くことに嫌悪を覚え、一時は高校進学を辞退しようとしたこともあったし、「常識だから」と進学したり、就職することに鼻をつまみたくなるほど、へどが出そうでした。

そういうところがお互いに引き合ったのでしょう。

いいときも悪いときもぼくらはお互いの気持ちをさらけだし、彼女にふられたときはお互いにぐしゃぐしゃになった心をたれ流し、お互いにとって欠かせない親友になっていました。

転機は訪れる

進路を選ぶとき、人と人とは別れてしまうことがあります。

ぼくは大学を卒業し、就職せずに音楽を始め、アジア放浪の旅と日本二周の旅に出ました。

ぼくは自作のCDを作って日本二周の旅に出て、そのCDの売り上げと路上での投げ銭と行った先でのライブの収益で2年間の旅の生活を賄いました。

その時売り歩いていたCDですが、大量に持ち運ぶことはできないため僕は親友の彼に増版と旅先への郵送を頼みました。ただで頼むことは申し訳ないので、1枚当たりいくらで、ということで後々報酬も渡すことにしました。

今思えば本当にお世話になったと思います。

彼がいなかったら旅を続けることはできなかったのですから。

ぼくはその後何を目指して生きていけばいいかわからなくなり、彼女とも別れてしまい、長いトンネルに入りました。

彼は消防士をあきらめSEになりました。

その時期ホームページを作りたくて彼に手伝ってもらったこともあります。

でも、ぼくは音楽から離れることにしました。

そのことを彼に話したとき、彼は「おれはSEGEちゃんには音楽続けてほしいな。」と言われました。

でもぼくは自分が自分であり続けるために今の仕事に就きました。この仕事が天職だと思っていて今でも続けていますが、この仕事についてから彼と会ったのは2回だけです。

最後に会ったのはぼくが結婚する直前のこと。彼と同期の後輩たちと一緒に飲みに行き、彼の家に泊まらせてもらったのが最後です。

その時ぼくは彼に弱音を吐いていたと思います。彼には、「そんなこと言うならもう会えないよ。」といわれました。

それっきりです。

飲みに誘っても断られるし、結婚式にも招待したましたが、現れませんでした。

もう二度と戻れない

はっきりとこれが原因なのだ、ということはわからないままです。

でもぼくはきっと彼を自分のいいように使っていたのかもしれないと思ったのです。

歌を歌う僕を応援しサポートしてくれた彼にとって、僕は負け犬だったのかもしれない。

自分は何のためにサポートしていたのか。そう考えるとぼくと一緒にいることはただ自分を疲れさせるだけだと思えたのかもしれない。

いや、音楽をいったん捨てて進路を変えるというとき、もっと腹を割って相談してほしかったのかもしれない。

それでいて、ぼくはえらそうに先輩面していたところもあったと思います。

何にしてもぼくは自分のことしか考えてなかったのです。

結婚式のお知らせをした電話でのこと。ぼくは、もう彼の心がぼくから離れていることを察知していたので、その電話で謝りました。

「おれ、ほんとにごめんね。今まで・・・」

「何が?別にそんな謝ることないよ。何謝ってるの?」

それ以来一度もあってもないし、しゃべってもいないです。

ぼくは、自分がとんでもない失敗をした、とんでもなく大切な宝を失った、自分を心から支えてくれていた友達を失ったと思いました。

でも、もう二度と彼には会えません。時は決して戻せないのです。

彼からアプローチがあるまでは、ぼくは恥ずかしくて、自分から声をかけるなんてとてもじゃないけどあつかましいにもほどがあるという風に思っています。

彼はぼくに愛想をつかしていたことでしょう。いや、ぼくと距離をおくことが彼なりにぼくに対するせいいっぱいの愛情だったのかもしれないとも思います。

「気づいて」

と。

そして、ぼくはもう二度と友達をそのように扱ってはいけないと心に決めました。

人を失う時、人は初めてもとに戻せないものがあると気づくようです。

そしてその大切さに、失ってようやく気づくことができる愚かな生き物なようです。

少なくともぼくは。




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