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私を絵本の世界へ導いた作品『日曜日の歌』

ある作品がきっかけとなり、その世界の広大さあるいは奥深さを知り、気づけば沼に足を踏み入れてしまっていたという経験はないだろうか。

長谷川集平作品『日曜日の歌』は、私を絵本の世界へ導いた。

映画上映前の待ち時間に立ち寄った書店。なんとなく絵本コーナーへ。映画を待っていたわけだから、目当ての作品があるわけでも、何かを発掘してやろうと思ってもいない。表紙を眺め、ときには手に取り、パラパラとめくり、戻す。

たまたま手に取った作品のひとつが『トリゴラス』だった。この時点ですでに導かれていたのかもしれない。「かっこいい絵を描くなあ」「画面が映画っぽいな」という簡単な印象を持ったことを覚えている。そのとき初めて名を知った長谷川集平という作家。書棚に並ぶ彼の作品群を読むことにした。

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上映後、映画館を後にする。
辺りは暗かった。駅へ向かう。

記憶に残っていたのは、鑑賞を終えたばかりの映画ではなく『日曜日の歌』という絵本だった。

この日、私は絵本にしかできない表現を知った。
一冊の絵本がこんなにも余韻を与え心をかき乱すのかと驚き、絵とことばの相互作用からなる感動の持続を体験した。


『日曜日の歌』は、1981年に好学社より出版された長谷川集平の絵本である。

なにをやってもうまくいかない家族が、ぼく(息子)目線で絵日記風に、黄(背景)と黒(線)2色の絵と手書きの青文字によって描かれる。
絵日記帳と同じB5判が手に馴染む。

本を開き第一画面、まずはじめに飛び込んでくるのは、ぼくの拳だ。教室内にフル・ショットで捉えられた少年少女、向かって右側ぼくの伸びきった右腕が、左に立つメガネをかけた健次郎を殴る。

まるで自分に拳が向けられたかのように強い衝撃を受けたのは、私だけではないだろう。
教室の奥で驚く生徒たちとは異なり、淡々としていて乾いたぼくと健次郎の表情と、

「ぼくが健次郎を/なぐっているところ。」

と綴られた文章に事件性を感じ、心がざわめく。
ざわめきを抱えた読者は、これから淡々とした絵日記を目撃していくことになる。
説明不足と言える短い文章だが、文末に添えられた「ところ。」という"ことば"のパワーにより、物語と読者に距離が生まれる。その体験はまるで叙事演劇を鑑賞するかのような異化作用がある。

児童書に暴力を持ち込み、乾いた感情と絵日記風の構成は、一見すると奇の衒いを感じる可能性すらある。しかし、本作が真正面から読者に向き合い心の深くに届く傑作であることは、すぐに分かることだ。

物語は、はじめて目に飛び込んだガタガタとした絵と文からは予測がつかない、非常に整えられた展開である。
先述した通り、本作は絵日記風であるが故、1ページを横に分割し、上半分に絵、下半分に文字という構成の基本があり、事件→反省、呼びかけ→応答といった丁寧な反復が繰り返される。
また、基本の枠が外れ、見開きを1枚の絵が支配する画面が4度現れる。この見開きいっぱいの絵をきっかけに、家族の状況、状態が変化し、起承転結にメリハリがつく。この見開き絵が第四画面、第八画面、第十二画面、第十五画面と規則正しく置かれていることから、長谷川の緻密な計算を伺うことが出来る。

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(▲『日曜日の歌』見開き基本構成。第十画面。)

こうした反復や展開は、映画を思わせる。
今江祥智は「大人になった現在読んでみたい絵本100選」として本作を挙げ、

長谷川集平の絵本は、第一作から私の心を握りつぶしてくれた。これまでの絵本にはなかった苦くて深い味がした。映画のシナリオを思わせる「せりふ」ばかりの文章と、映画のシーンを思わせる絵の展開で、これまでの絵本にはなかった世界を次々に拓いてきた。(今江 1998)

と述べる。また、赤羽末吉は『私の絵本ろん』で、

「これは親と子の平凡な生活をたんたんとかいたものだが、小津安二郎の映画をみているようだ。ホロッとした、ふしぎな本だ。」

と評価しているように、家族というテーマや正面性の印象は、まさに小津安二郎的だ。ひっかかりのある異化作用はジャン=リュック・ゴダール的だとも言えるだろう。しかし、いくら私が映画好きだからと言っても映画的であること=魅力だとは思っていない。
あの日、私は確かに映画には不可能な表現を知り、映画には感じ得ない心の動きを体験をしたのだ。


本作の最大の魅力は、人物の生きた表情ではないだろうか。子どもが描く絵日記の単純な線は、これほどまでになく繊細に心を表している。
特筆したいのは、スクリーンに映る男と共に家族が涙を流す第八画面。

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(▲『日曜日の歌』第八画面)

周りの人間に視線を移すと、涙を浮かべるどころか当惑に近い表情をしている者すらいる。この絵は浦山桐郎『青春の門』に影響を受けたと御本人から伺ったことがある。『青春の門』は、五木寛之小説を映画化した北九州・筑豊が舞台となる青春物語だ。第八画面で家族と同じように涙を流す少年は、集平絵本『とんぼとり』『とんぼとりの日々』に登場する筑豊からの転校生だと考えられる。
第八画面には本当の苦しみ、辛さ、悲しさを知っている人にしか共有し得ない痛切が描かれているのだ。

初めて本作と出会った日、なんとも感動的なこの画面を前に、私は次のページをめくるのに時間を必要とした。以降、家族はそれまでの淡々な表情とは打って変わり豊かな表情を浮かべる。第八画面は、喪失が再生に向かい、敗北者が勝者になる瞬間だったのだ。

本作を編集した好学社の鈴木常之はその後のシンガー&ソングライター鈴木常吉である。長谷川と絵本を作るために出版業界に入り、実現したのが『日曜日の歌』である。『絵本の作家たちIII』で、長谷川は鈴木との思い出を語り、

「一晩で『日曜日の歌』を描いた。」

と発言を残す。時間をかけて精密に書き上げるのではなく、衝動的な情熱が純粋なまま筆に込められることによって、人物ひとりひとりの心が緻密に表現されたのではないだろうか。"一晩"のみが本作の完成を可能にしたのだ。
また、長谷川自身

「あれで足場が固まった。」

と述べるように、『青春の門』と鈴木常吉と過ごした時間は、彼にとって弱い立場、低い身分として生きることの決心へ導いた。

物語に戻って、次の日、父親は野球の試合で相変わらず敗北する。ここで父親が勝利すれば、もしくは、敗北したとしても「楽しかった」「勝ち負けだけじゃない」といった何かしらの理由をつけて笑顔で物語が完結していれば、本作が記憶に残ることはなかっただろう。
しかし、野球の試合での敗北後、読者と一度も目が合わなかった家族は、突然に正面を向く。

「ばかやろう」

そう言って、攻撃性に満ちた表情で、歌をうたう。ぼくはこちらに向かって石ころを投げようとすらしている。(第十五画面)
一体感の高まりを持った家族の訴えかけに、客観視していた読者は驚かされる。読者に向けられたのは、怒りなのか、苦しみなのか、それとも愛なのかと、戸惑う。第一画面で抱えたざわめきは別のざわめきとなり、読者は日常の世界に戻らなければいけないことになる。
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日常に戻った私は、気づかぬ間に怠慢で安全な場所から見下ろす強者になろうとしていたことに気づく。言葉にできなかった罪悪感や怒りが姿を現し、正面を向いた家族と対峙したときのように、自分と対峙する。私にとって『日曜日の歌』は、殴ってくれる、「ばかやろう」と言ってくれる作品だ。

こうして目を覚まさなきゃいけないと気づいた私は、絵本の入り口に立った。


ー 参考 ー
今江祥智 (1998)『はじまりはじまり 絵本劇場へようこそ』淡交社出版
赤羽末吉 (2005)『私の絵本ろん』平凡社出版
湯原公浩、西沢洋子(編)(2005)『絵本の作家たちIII』平凡社出版

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