その表現は誰かに労力をアウトソーシングしていないだろうか?

 幼児向けの乗り物の絵本に20ページ中6ページにわたって自衛隊の車両が掲載されていることが問題視され、当該書籍の増刷が中止されるという事件があった。
https://this.kiji.is/526697181804217441
 そもそもの前提として出版社にはこういった書籍を出版する自由があり、消費者には抗議する自由がある。結果として増刷の中止という判断を出版社側が下すのもまた自由……というかこれは経営の裁量の範囲であろうから、実のところ、この件について特に付け加えることはない。じっさいこれに類する事件はこれまでに何度も繰り返されてきたし、それへの反応もおおむね既視感のあるものだ。
 にもかかわらず、本件ならびに類似する事件においてはいつもあまり語られることのない論点があると感じていたので、これを機にきちんと思うところをまとめてみる。なによりこれは、表現することについて考える上で典型的な問題でもある。


 今回の書籍についての反応をネットから拾うと、幼児向けの乗り物の本に自衛隊車両が何ページも続くのはおかしいというものがある一方で、そういったものを意図的に排除すべきではないという意見がずいぶん見られる。たとえば、兵器といえど車両だからと言うものだ。そうかもしれない。たとえば、子どもわけても男の子は武器も兵器も大好きなのだからことさらに隠してどうなるというものだ。そうかもしれない。またたとえば、自衛隊だって軍隊だって職業なのだから「はたらくくるま」から排除するのは恣意的だというものだ。一理はあろう。
 そう、いちいちこういった意見は一定の理はあるのだ。僕は兵器が大好きなのだからたとえ幼児向けの絵本であろうと排除されるのは絶対に許さないぞ、などといったようなヒステリックな意見はまずは目にしない(と思いたい)。
 にもかかわらず、これらの意見は理屈はきちんと通っているのだけれど不完全だよなと感じる。逆に言えば、通しやすい理屈の部分で辻褄が合っているに過ぎないとも思う。要するに、一部分でしか合っていない。
 ではこういった「一部分だけは合っている」意見からこぼれ落ちているのはなにかと言えば、実のところ一見このような「公平な」意見は有形無形の労力を他人に強いている、その点である。総論における正しさを主張することで、各論で払わなければならない労力があんがい多大であることを無視している点である。これを次段で詳しく述べる。


 本件における各論の部分は、問題視された車両が兵器である点である。また、幼児向け書籍である点である。つまり、必須の要素ではない。この世の車両を網羅するような書籍で漏れれば逆に問題ともなろうが、幼児向けの「はたらくくるま」に兵器が何ページも掲載されるのは現代の日本であれば異例だろう。憚りながら自分も三児の父である以上、それぐらいの勘所は働く。
 ではここでなにが問題になるかと言えば、兵器という大人でも価値判断が多様に分かれるものを、価値観も判断力も伴わない幼児にどう説明するかという点である。大人ならば各自読んで各自ご判断くださいという一種の逃げが打てるが、子ども相手であればそうはいかない。はっきり言えば、子どもの価値観や判断力の醸成は、相当部分親に責任がある。ここでは逃げも打てないしお為ごかしも言えない。この点こそが、本件においてきわめて重要な「各論」である。人生が始まって間もない時期の人間の乏しいリソースに供して、しかもそこになんらかの価値判断を付け加えなければならない。そしてその責任はほぼ完全に親に存する。こうやって一つ一つ文章にしてみると、これはなかなかのプレッシャーであるなと自分ながらに思う。
 本件の当該書籍に関して言えば、どんなふうに糊塗しようとも、突き詰めれば殺戮のための道具であるものを、ほかの「はたらくくるま」と並べて説明するのはなかなかにしんどいことだ。20ページ中6ページともなれば見なかったふりもできまい。詰まるところは人殺しの勝負であるところの戦争や紛争の意図を幼児に説明するのは相当に困難だと思われるし、ましてや抑止力としての武力や自衛のためのみに存在する兵力などといったものは、口にする大人ですら一種のペテンではないかと疑うようなシロモノである。虚実の判断があいまいな幼児にこれを言うのは不誠実だ。
 ……などと想像を巡らせて、原点に立ち返って思うのだ。さて、これは「はたらくくるま」を読み聞かせる親が払わなければいけない労力なんだろうか? と。(※)


 そう、この手の問題の度に繰り返されてきた、表現の自由であるから受け手は都度都度判断すればよろし、レッセフェール! と言ったたぐいの一見リベラルな、しかしかなり粗雑な意見が孕んでいるのは、実はこの「表現を現実に適応させるために労力を他人に払わせている点」にあると自分は考えている。幼児向けの絵本に必須とは思えない分量の兵器の紹介を幼児に説き伝えるための労力は、それがなければ払わなくてよいものである。育児に手抜きをするなという意見は一理あろう。しかしながら、特段必須とは思えない兵器の掲載という、はっきり言えばなんだか奇妙な現実を肯定するために払いたい労力ではないし、まして当事者でもない人々が他人に強いるのは傲慢だろう。
 どう言いつくろおうとも人類と戦争は切り離せないのだし、それを隠すのは偽善だという意見もよく聞く類型のひとつではある。例えそうであったとしても、物事には段階というものがあるのだ。中高生向けの書籍で隠蔽するのは逆に不誠実だが、幼児向けの絵本にはなくてもなにも困るまい。物事とはそうやって一つ一つ、細かに、検討していかなければならないものなのだ。総論を振りかざして議論をチャラにすることはできない。


 さて、これまでにも、例えばエロ表現についても似たような問題は結構な頻度で起こってきたけれど、その都度自分が考えてきたことも書いてきたこともこの「はたらくくるま」問題と大きく変わっていないと思う。例えばこちらから始まる一連のツイートはいわゆる「悪書追放運動」についてのものだが、大意はほとんど同じである。
https://twitter.com/segawashin/status/1042111679885176833


 余談になるが個人的にも類似する経験をしたことがある。一年ほど前、倅(当時6歳)がクレヨンしんちゃんに猛烈にはまってブリブリ言ったりケツを出したりしていた。まあそれはいいのだが、「男の人って巨乳が好きなんでしょ?」みたいなことを言われたときにはチト困ったことになったぞと思った。なにしろ米国在住という状況下、日本語のリソースは非常に乏しい。他に読んでいたのはドラえもんとかいけつゾロリぐらいだったから、まあ犯人はクレヨンしんちゃんであろう(笑)。性の記号化とか女性蔑視とかまあ色々問題はあるんだろうけど、個人的に感じたのは、こういう漫画的なステロタイプを自明にして欲しくないよなあと言うことである。大人であればこれが一種の冗談であることはわかるのだろうが、子どもであればそうはいかない。他人の身体的特徴に着目してそこに偏った価値観を付与するのは、些細なことのようでかなり尾を引くのではないかと思っている。
 結局そこで自分が言ったことは、「そういう人もいるけれどそうじゃない人もいるから、決めつけてはいけない」という一点である。それで別にクレヨンしんちゃんを取り上げるつもりも表現に抗議するつもりもなかったが、こういうものがあちこちに潜んでいる表現ってのは厄介だよな、とは思った。もともと大人向けの艶笑漫画みたいなところからスタートして幼児向けアニメのスタンダードに収まったという経緯の作品だから、他にもそういうネタはいっぱいある。今回は偶然自分に言ったから判明したものの、そういった経緯であまり意識もしないままに変な偏見やステロタイプがすり込まれるのは結構大きい問題だよなとは思うのである。


 原則に立ち返れば、自分は冒頭に示したように、表現する自由もあれば抗議する自由もあると考えている。そしてまた、表現する側は、その表現についてよほどきちんとした理屈を持たなければならないとも思う。それは表現する側の責任である。粗雑な理屈で提示したものが粗雑な抗議を受けたとしても文句は言えまい。
 そしてまた、この文章で提示したように、有形無形の労力を誰かにアウトソーシングするものではないかという観点についても、表現する側が持っていただければありがたいと思う。自分が不勉強で知らないだけかも知れないが、表現することが孕むこういう観点の問題というのはあまり議論されてこなかったのではないかと思っているからである。


(※)もちろんここでは不誠実に開き直ることだってできようし、その方が現実的ではあろう。どうだい戦車はかっこいいだろう、迫撃砲で悪いやつらも粉みじんだ。揚陸作戦には水陸両用車が力を発揮するぜ、炊爨車で兵站の確保もばっちりだ! そういう教育を子どもに施したいかと問われれば、自分ならば絶対に否と答えるけれど。

2019/7/27

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?