彼女たちにとっての家族と人生 ――「ミネルヴァ論」序章・続

 前回からの続き。

 ミネルヴァについて論じる前に家族について論じる理由は、端的に言えばこのゲームの物語の真のテーマが異なる家族間におけるイデオロギー闘争だからである。そして、ミネルヴァもまた、ヴェーネたちが運命を駆けて戦う世界の命運に対して、外部から重要な関わりを持っている。

 ミネルヴァはフェジテにおける主要国家と言ってもいい天使国家フェジテの盟主(見習い)であり、フェジテ、そしてセラパーソンを創造したキャサリン・リオとベネディクタ・フェジテの末裔だからである。直接的な血の繋がりは描写されていないが、フェジテの女王がフェジテ姓を名乗るということ、また、国家としてのフェジテが創世者や現執行役のデイジー含め女系であることを見ても、描写されていない何かが脈々と受け継がれているのは想像に難くない。

 物語の最終決戦はヴェーネ対エルという女性同士の対決の構図をとるわけだが、物語はそもそも始めから女性の能力ありきなのである。そうした非男性社会という構図も、ネオリベラルな世界観とマッチしていると言えよう。ゲオルクもモーガンもエンデも、あるいはレイクもユアンといった男性たちは、エンデの言葉を借用するならば星の運命にとってはエキストラだったのかもしれない。そう考えると、キャサリン・リオとベネディクタ・フェジテはなかなか末恐ろしい脚本家コンビである。

 いったんミネルヴァから議論を離れてみても、このゲームでは非常に様々な家族像が描写されていく。

 たとえば主人公のレイクには両親がいない。母親は自分を産んだ直後に死に絶え、父親は自分の元を去ってしまった。後に父親がユアンであり、母父(祖父)がゲオルクだと分かるのだが、ヴェーネと奇跡的な出会いを果たさなければ、レイクはココモの孤児のまま大人になっていたのかもしれない。

 父、あるいは母の不在もまた珍しくない。娼婦のフォクシーは、両親が殺害されたことをきっかけにして両親を失う。知的障害を持つドリスには性格の悪い母の描写はあるが、父の描写はない。アカデミーに入ることで、その母の元をやがて離れていく。ニクソンには妻子がいたが、やがて二人は離れていく。そしてヴェーネは、レイクの母であるシリアの記憶を宿したまま誕生し、ジークベルトという仮の、そして狂った父親の元で育つことになる。

 ヴェーネと同様に、狂った父の元で情操をコントロールされたヴィルジニーも数奇な人生を送っている。ヤンシーやランサードにはそもそも家族の描写がないので判別できないが、十分語られない過去に重みがあるのは手に取るように分かる。

 そして一番語られるべきはクルスク家だろう。以前ブログでクルスク家の投げ掛けてくるテーゼについては記述したので詳細は避けるが、エンデが意外とはやく退場して、最終章に入ってクルスク家が真の敵として登場する構図は、先程述べたようにこのゲームのテーマ的には正しい流れだ。


 家族、それはどうしようもなく選べないものであるはずだ。そして間違いないなく人生にとって重要な意味を持つ。いや、意味を持ってしまう。短くはない幼少期から学童期、青年期を、両親とともに過ごすか、あるいは両親の産み落とした世界で生きざるをえない。

 その圧倒的な不幸と不運を、クルスク家は身をもって提示した。彼らほどわかりやすく、そして悲しい主張はない。2014年に公開した「ヴェーネ論」では彼らの思想に対する反論を試みてみたが、私たちの住まう世界にも反出生主義という主張は存在するし、生まれることそのものから起因する不幸を完全に排除することができないならば、多かれ少なかれクルスク家に屈するしかない。

 
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 では話をもう一度戻して、ミネルヴァの場合はどうなのだろう。ラストシーンにおける彼女は、ヴェーネと限りなく近しい場所にいながら、彼女とは異なる答えを持っているように思えた。

 なぜここまでミネルヴァの話をするかというと彼女の人生はヴェーネとは対極にある人生だと思っているからだ。ヴェーネだけでなくドリスやフォクシーは壮絶な人生であるしヤンシーも親友を失った過去がある。ただミネルヴァにはそういった過去はない。逆に彼女の場合は、来るべき統治者としての責任が重くのしかかっている。単に未来の政治家の卵というわけではなく女王の座に就くことが約束されている19歳の少女にとって、ヴェーネやフォクシーたちのたどってきた人生はまったく別の次元にあるはず。だが。

 だがだからこそ彼女たちの人生にミネルヴァが「触れる」ことによってミネルヴァ自身が変容していくこと、それを物語通じて描きとおすことがセラフィックブルーの3人をとりまく物語の裏のコアなのではないかと思っている。天ぷらは以前、自身のHP「Blue Field」(現在は閉鎖)内のコラムにおいて、ミネルヴァは物語のガイドだと話していた気がするが、確かに最後まで彼女は無事に生き残り、肖像画に描かれたヴェーネを見送るという意味では優秀なガイドでありツアーコンダクターだったと言える。

 ただ、実は彼女をこそ描きたかったのだとするならば、つまりセラフィックブルーのいらなくなった世界(救世が達成された世界)のビジョンを持っていたのかもしれないと思うし、ほんのわずかしか世に出ることはなかった幻の4作目『Sadmire Blue』に繋がるのではないか、ということも同時に考えている。この幻の4作目のヒロインであるとされたアサギ・エヴァ―ブルーは研究者か調査者かという設定だった記憶があるが、『Seraphic Blue』において世界中をハウゼンという優れたボディガードと共にフィールドワークして回ったミネルヴァの残像を、アサギに重ね合わせたくなるのだ。

 あるいは2作目の『Stardust Blue』をプレイしたことのある人ならばこのゲームで貫かれていた悪と正義というテーマが『Seraphic Blue』でもしばし立ち上がってくることを実感したと思うし、このあとにくるSadmireがどんな物語だったのだろうと考えながらミネルヴァ・フェジテのことを考えている。肖像画となったヴェーネを除くと、本編において物語の最後に登場するキャラクターがミネルヴァだということも、天ぷらが彼女の存在や役割を最後まで重要視した理由にもなるのではないか。

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 以上が、来るべき(はずの)「ミネルヴァ論」のための出発点である。最後に、「ミネルヴァ論」の目指すべき地点を確認しよう。

 ミネルヴァにとって重要なのは何より、統治者とはいったいどのような存在なのであり、すぐれた統治者になるためにはいったい何が求められるのか?という点である。彼女は徹底的に、天使国家フェジテの次期女王として生きていく必要がある。それは、あらかじめ定められた運命に従いながら生きるという点で、ヴェーネと近しい。しかしミネルヴァにはヴェーネのような葛藤はなく、むしろ確固とした思いがある。あるとすれば彼女がまだ未成熟であるがゆえの葛藤や驚き(たとえば最初にフォクシーと会話をするときのように)であって、ありふれたものだ。

 前述したように、ヴェーネとミネルヴァが近いものを持っているようで、まったく正反対の要素も持つ。「ヴェーネ論」ではヴェーネに対してせめてもの救済をするためには何が可能かという点も示したが、ミネルヴァに対して示したいのはあくまでなぜ彼女はヴェーネとの間に違いが生まれたのか、である。運命を持って生まれた存在である二人の少女は、異なる道を歩み、異なる結末に導かれたのはなぜか。彼女たちは途中まで行動を共にしながら、なぜ一方は悲劇的な結末を選択し、他方は妥当なハッピーエンドを迎えたのか。もっと言えば、なぜ天ぷらはゲームの結末部分において、こうした残酷なまでの差異を提示したのか

 ミネルヴァは生まれたときからミネルヴァだったに違いない。しかし彼女もまた、ゲームを通じて大きく成長していく。その成長の過程を、追いかけてみたいと思うのだ。繰り返すようだが、わたしたちプレイヤ―に対して、最後に語り部として登場したのは主人公のレイクでもヴェーネでもなく、ミネルヴァ・フェジテなのだから。

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