【Daily Reading】2014年5月 part 2

・浅田彰×東浩紀(2014)「『フクシマ』は思想的課題になりうるか」(『新潮』2014年6月号、新潮社)
 
http://www.amazon.co.jp/dp/B00JRE3PLQ

 3.11と想像力の問題が中心的な話題。
 傷つけ合わないコミュニケーションなんてコミュニケーションじゃないよね、というところ意外はほとんどかみ合っていないところも面白かったが、それは単に世代の差というよりも関西と関東の差でもあるかもしれないと感じた。
 3.11が浮き彫りにしたのは「東日本」だったが、阪神大震災のインパクトは阪神地域の、分かりやすく言えば関西の域を出ない。関西の中でも地域的に偏ったダメージを与えた阪神大震災と、津波や原発事故を引き起こし、関東を一日中パニックに陥れた(そしてその後も影響は続いた)3.11を比較してもあまり意味はないのかもしれない。
 ただ、それでも関西にいる浅田彰からすれば、3.11は結局東(関東、東北、東日本)のことでしょう、という域を出ない。このリアリティは、少なくとも東京ローカルな(特に言論に敏感な)人間にとっては共有しえないのではないか。震災の約一週間後に四国に帰省し、(あたりまえだが)なんでもない日常が四国では続いていたことを思い出す。
 若手言論人に興味を持っていない浅田に対して、東は微妙な距離をとりつつ彼の本意を切り出そうとするのが全体的に面白かった。つまりこの(ゲンロンカフェでの)対談は、東と浅田の差異を改めて確認し表出させるために行われたのかもしれないと思う。

・黒瀬陽平(2008)「キャラクターが、見ている アニメ表現論序説」(『思想地図』vol.1、NHKブックス)
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 伊藤剛を引きながら、氷川竜介や藤津亮太といった大御所をも批評的な文脈からは批判していたのは印象的だが、黒瀬の一貫した主張を読むと納得する。芸術畑出身として言いたかったことがあったのだろう、と勝手に推測する。
 文フリに同人誌を出していた某氏が黒瀬のこの思想をどう引き継いでいくのかが個人的に気になるところ。

・柴崎友香(2014)「春の庭」(『文学界』2014年6月号、文藝春秋)
 http://www.amazon.co.jp/dp/4163901019

 柴崎が今作で試みたことはいくつかあって、特に柴崎らしさである「わたし」を暫定的に封印したことは新しい試みと言える。三人称の視点を複数用意することにより、いままでなら「わたし」の目線からつづられた様々なことを拡張し、多角化している。
 ある家の謎(というほどではないが)を探るという今作での試みは、「わたし」が経験的に語るのではなくて、「わたし」ではない三人称が家の内部に侵入していくことに面白さがあるのだろうと思う。
 ただ、そうした三人称の視点が一つの場所をめぐる物語として成り立っている側面と、三人称それぞれ(太郎や西)の内部の物語(父親の思い出だとか)が混在してしまっていて、今回はエピソードが散漫に入っている印象しか受けない。なぜかかればならなかったのかが、最後まで読んでもよく分からなかった。
 さらに言えば、家の歴史や太郎と西の過去の物語を、東京という場所に特定づける必要もさほど感じない。『その街の今は』や『わたしがいなかった街で』の「わたし」は実際に街(家の外と言ってもいい)を歩き、経験的に土地の記憶や物語を回収していく主人公だった。そこには地理学を専攻した柴崎自身の思いや、もしかしたら柴崎自身の歴史も含まれているのかもしれない。
 終盤唐突に「わたし」が登場し、そして文体もいつもの柴崎に戻ったところで妙な安心を覚えたのは、これならば柴崎のいつもの構成であって進行だろうと思えるからだ。別に小説を読むのに安心はいらないと思うが、今作は170枚ではなくもっとつづめて書けばよかったのではないかとは少なくとも思う。170枚の小説にするならば、もっと他のやり方があったはずだし、あえて「わたし」を封印する必要もなかったのではないか。
 柴崎をいろいろ読んできた身としてはこうした(柴崎にとっての)変わり種も悪くないし駄作だとまでは思わないが、もやもやとした感覚は残る。特に、絵にも描かれるほど具体的で特定された場所へのこだわりが感じられるわりには、小説の中で固有の土地や場所であるがゆえの魅力を十分回収できなかったのではないか。これは、「わたし」を封印したせいなのかどうかは分からないし、同じくある家と家族が舞台にもなっている『群像』の「パノララ」(まだ未完だけど)とリンクさせて考えれば今作で柴崎が試みようとしたことの意味がもう少し分かるのかもしれない。

・片岡義男(2014)「偉大なるカボチャのワルツ」(『文学界』2014年6月号、文藝春秋)
 http://www.amazon.co.jp/dp/B00JMKHIP4/

 一つのかっちりとした物語を書ききるのではなく、突然始まってふと終わるところに片岡の最近の短編の魅力があると思うが、短い中でカボチャやワルツといった話題を出す会話が作れることと、その中で十分な存在感を持ったキャラクターを作れるのはやはりさすがだと思う。

・鈴木謙介(2007)『ウェブ社会の思想 <偏在する私>をどう生きるか』
 http://www.amazon.co.jp/dp/4140910844/

 情報環境の変化、特にゼロ年代以降のユビキタス化はパソコンとモバイルによるアクセスの質的な差異を生んだが、現在ではスマートフォンによって統合された部分(パソコンとほぼ同様のウェブ環境)と差異として残っている部分(ソーシャルメディアによる「わたし」のさらなる遍在とログ化)があるだろうと思う。
 それ以上に重要なのは本書で書かれている宿命論と<宿命>からの脱出は現在でも可能かという議論だろう。宿命は誰かから与えられたものである以上外側へと手を伸ばすことで脱出することはできるはずだが、続編となった(と思われる)著書『ウェブ社会のゆくえ <多孔化>した現実のなかで』(2014、NHKブックス)によると、わたしたちの多孔化した現実では情報が孔からどんどん入って現実が常にアップデートされる。
 つまり、宿命を逃れる(あるいは宿命を拒絶する)ためにはたった一つの<現実>からの脱出ではなく、常にアップデートされ、変化し続ける<現実>から脱出しなければならないのではないか。ソーシャルメディアとビッグデータの浸透によって、本書で書かれているような数学的民主主義(本書では否定的に検討されている)に少し近づきつつある。
 ソーシャルメディアが本当にソーシャル(社会的な)な関係をもたらしてくれるなら宿命からの脱出はできる。しかし、本書ではケータイでのコミュニケーションが、インターネットとつながっているはずなのに私的な関係に閉じていることが指摘されているが、ソーシャルメディアでも同じようなことが言えるはずだ。
 特にクローズドな関係が前提とされるSNSならなおさらだ。それ自体が悪いというよりは、閉じていることによって二次的に生まれる問題に対処するために、はたして外部へと手を伸ばすことはできるのだろうかと思う。
 逆に、2014年になっても似たような問題意識が生きてくるという意味では2007年の著作の意義は古びていない。ある意味で、技術は変わっても人間はそう簡単に変わらないということを、再確認できたかもしれない。

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