見出し画像

いずれ朽ちゆくものたちへ

【オイサラバエル】の考察(一部感想もあり)。普段は読みやすさや記事としての見栄えを意識して文章を組み立てているが、たまには私にとって楽な文体で書いてしまうことにした。

 実は、今回の記事には過去の【ギンコ・ビローバ】についての記事、【ピトス・エルピス】についての記事で記述したことと重なる部分がかなり多い。過去の記事と他の方々の記事を読んでいただければ、あとはそれを軽く補足するだけである程度理解いただけるだろうと思う。そのため、新しい記事を書くモチベーションはあまりなかったのだが......

初見でコミュを読みながら(全選択肢含む)全文を書き起こした時間を自己満足で終わらせてしまうのも、何となく惜しかったのだ。
これがサンクコストバイアスというやつか!


タイトル【オイサラバエル】について

【オイサラバエル】というタイトルは、この記事のタイトルにもあるように「老いさらばえる」という動詞だ。恥ずかしながら私はこの動詞を知らなかったので、最初見た瞬間は「老い 然らば 得る」というトンチンカンな解釈をすることになってしまった。欠けた部分を勝手に想像で埋めてしまったことを反省。書かれていることはきちんと調べないといけない。

「老いさらばえる」という表現に馴染みがなかったために、敢えてこの記事のタイトルでは「朽ちるものたち」とさせてもらった。断じて何となくそっちの方がカッコイイ気がしたからではない

(自下二)年をとって、弱りおとろえる。
おいさらば-ふ(文語ハ下二)

『新選国語辞典』第九版

さて、【オイサラバエル】の活用形は終止形か連体形で、時制は現在。日本語において、現在形は未来のことや「普遍の真理」を表すことができる。この記事では「普遍の真理」を採用し「形あるものはいずれ老いさらばえるものだ」くらいの意味合いであると捉える。無論、廃墟やドライフラワーなど「老い(劣化)」と深く結びつく言葉はいくつも出てくるが、この【オイサラバエル】が具体的にコミュ内のどれを示すタイトルであるかを考えるのは不毛なのだ。広く取っておいた方が都合がいい。


このコミュでは、LP編の円香の心の中の言葉「『ひとりひとり』の歌になれ」が明確に意識された文言がシャニPの口から飛び出している。「欠けたところを想像で補うことによって魅力が増大するミロのヴィーナス」というシャニPの話の内容も、「誰のためでもない歌」という、歌を届けられる対象の不在を聞き手が各々の心のなかで埋める構造とリンクするだろう。

「人気の絶頂で引退した、アイドル、俳優、ミュージシャン」にも同様の事が言える。過去のコミュとは切り離してこのカードのコミュだけを見るのであれば、この部分が後の部分に最も影響しているとすら言える。

補足

このコミュからもう一つ核心に触れる言葉を取り上げるとするならば、やはり「美しいものの話」であろう。これもシャニPの口から出た言葉である。この言葉の意図(ライターの意図と捉えるのも、シャニPという人物の意図と捉えるのもよい)は何だろうか。私は、【ピトス・エルピス】から言葉を借りてこのように表現したい。

「樋口円香が持つ激情を刺激し、樋口円香の心の奥にある『gem』に触れること」と。そう考えれば、「廃墟、エントロピー」とTRUE「美しいもの」における以下の会話も深い意味をもつものになるのではないだろうか。

「あんまりうろうろすると床が抜けるかもしれないぞ」
「そうしたら落ちる前に掴んでくれるんですよね」
でも振り払うんだろう?
「よくおわかりで」

「廃墟、エントロピー」(会話の場合、鉤括弧を足している)

「貸してくれ、持つよ」
「駐車場まですぐそこですので。軽いし」
「そうか」
じゃあ、俺にも少しだけ、もらった花を見せてもらえないかな
持ちたいんじゃなくて、見たかったんですか? 最初からそう言ってください
「すまん」

「美しいもの」

【ピトス・エルピス】では樋口円香という人間の中にある激情に気付いた(私は、「気付いた」というよりも、元々感じていたことが強烈にプロデューサーの心に刻まれた、という話だと捉えている)。しかし、それを深く理解したいと思って見ようとしても、円香がそれに気付いてしまえばアウト。手を振り払われ、逃げられるのがオチである。だから、雑談の場でさりげなく円香の心の中にあるスイッチ(とでも呼ぶべきもの)を押すのだ。

そしてシナリオライター、もしくはシャニPの思惑通り、我々はこの会話をきっかけにして樋口円香の価値観に触れていくことになる。見事な導入。最高の「序」である。


廃墟、エントロピー

このコミュでは、今回の話の構成において重要なものが提示される。
「視点」だ。「監督」「プロデューサー」そして「ユーザー」。それぞれの視点において樋口円香という人間について知りうる情報はまったく異なる。

監督視点だと円香は「自分が言うことに理解を示すいい子」であり、P目線では「本当に理解できたのかどうか怪しい→本当は理解していなかったが、相手にうまく合わせた、器用な子」になる。各々に「その人にしか見えないもの」があり、「その人では見られないもの」があるのだ。

このコミュはいわゆる「例題」である。このコミュを踏まえて「ドライフラワー」及びそれ以降のコミュという「樋口円香の視点」が含まれる実践問題に入っていくことになるからだ。

SR【カラメル】も同様に「例題」として見ることができそうである。いや、問題を解くというよりは授業で丁寧に教えてもらっている段階だろうか?

もう一つ、このコミュで大事な部分がある。各選択肢の後の円香の独白である。以下は、シャニPの「……奥には行くなよ」という言葉の後の部分だ。

(暗転)
目を閉じて
この建物の始まりを見る
終わるために始まったわけじゃない
それでも
――――……(音声上では「おわる」)
(一瞬背景が映り、再び暗転)
私は未来を知っている

「廃墟、エントロピー」において「……奥には行くなよ」を選択した後

(「廃墟、エントロピー」を通して)【カラカラカラ】の私服ホームボイス(1凸以上)の内容を想起させる内容であるであることは言うまでもないが、言いたいことはそういうことではない。

言いたいのは「私は未来を知っている」という発言が過去を起点とした未来、つまりは現在のことを指すと同時に、現在を起点とした未来を表してもいるということだ。前者は言うまでもなくこの廃墟の始まり、美術館としての賑わい、そしてその終わりについて思いを巡らせている文脈である。そして後者は、この廃墟に巡らせた思いを「形あるものはいずれ老いさらばえるものだ」という普遍の真理によって敷衍した思考である。

それは例えば、「アイドルである自分自身」であったり「高校生という青春の時代」であったり「家族」であったり、「自分の命」ですらありうるだろう。そういった「終わりのあるもの」全てに対する思いが「私は未来を知っている」という言葉とその周辺に凝縮され、内包されているのだ

少し長すぎたので端的にまとめると、廃墟を眺める円香の視線には「いずれ衰える私/彼/彼女etc……」に対する思いが含まれている、ということだ。

この選択肢だけでなく、他の選択肢を選んだ場合の円香の独白についても触れておこう。

この場所のことなど 何も知らないのに
かつてはにぎやかな声、ひとびとの希望が溢れていたのだろう
未来が輝いていたのだろうと 勝手な想像をする
そういう自分が
疎ましい

「廃墟、エントロピー」において「……すぐ戻る」を選択した後

「そういう自分が疎ましい」のは何故であろうか。ここはかなり意見が分かれそうなところだ。私は「そういった想像をしなければ、私も美しいと受け入れられるのに」といった気持ちがあるのだろうという形で捉えることにした。終わりと衰退を意識しつづけてしまうといったように、ある意味では厭世的と言ってもよい思考を持ち続けるというのは、楽な面もあるだろうが、やはり気持ちの良いものでもないのだ。

この廃墟を好ましいとは思えない
けど
今はないということは
かつて、あったということ
かつて、あって、今はなくなってしまったものは 
どれほど

「廃墟、エントロピー」において「……待っててくれ」を選択した後

「序」におけるミロのヴィーナスの――「美しいものの話」によって押されたスイッチによって円香の心が動いている様子が見て取れるという点において、面白い選択肢だった。
 
そこに無いものを見ようとしてしまう――欠けた部分まで見ようとしてしまうから完璧になる」という表現が、奇妙な形で当てはまっていると捉えることができる。「そこにないものを想像してしまうことによって、負の感情が増大する」ということも珍しくないのだ。廃墟の空想において、失われたものに対する寂寥の念などが勝ってしまうと。だが、そうであったとしても「完璧」であることには変わりがないのだ。

廃墟について、もう少し語らなければならないことがある。次のコミュ「ドライフラワー」にも通ずる話だ。

この廃墟は元々は「美術館」だった。そして「美術館」としての役割が終わり、少しずつ老朽化が進んだ結果、「廃墟になった」。つまり、終わりによって始まった――美術館が終わったことで廃墟が始まったのだ。
このことを念頭において、次のコミュについての話を読んでほしい。

割れたサンルームの天井から入り込んだ雨水が作り上げた底の見えない水たまりの水面を、天井から入り込んだ日光がキラキラと黒く輝かせる様を想像して、あなたはどう感じるだろうか。


ドライフラワー

ドライフラワーは「花」である。だが決して「生花」ではない。生花であることを「終わらせて」ドライフラワーにする(ドライフラワーを「始める」)。これは、悪意のある言い方をしてしまうと、生花を殺してドライフラワーを生むということだ。

当たり前だが、生きている昆虫と昆虫標本は違うものだし、若い人間を殺してから遺体を冷凍し「これで君の美しさは永遠だ!」なんて言う奴はサイコパスだと思うだろう。極論、ドライフラワーはそういうものだ。

『コツは』
『蕾は避けること』
『しっかり水を与えること』
『そうしてもっとも鮮やかな瞬間に』
『吊るすこと』

「ドライフラワー」

この「ドライフラワーを作るコツ」を読んで、皆様は何を想起しただろうか。私は「しっかりと肥え太らせたあとに出荷される家畜」だ。

とまあ、中々にひどい例えを用いたが。無論、私は決してドライフラワーに対して悪感情を持っているわけではないということを、誤解を招かないように述べておく。

七草にちかのシナリオに絡む「八雲なみ」という過去のアイドル。海外進出も見えたという、ここから最盛期というところで突如引退し、八雲なみの伝説だけが残され、飾られている様はまるでドライフラワーだ。

さて。ここまで読んだ方ならもうお分かりだろうが、ドライフラワーは廃墟と同様のあり方をしていると言えるのだ。つまり、樋口円香はドライフラワーを見て、その始まり、即ち生花を思わずにはいられない。だから廃墟と同様に「綺麗?」という疑問が出てくる。

映像を見て視覚的に把握すれば、より分かりやすい。

おそらくは生花
ドライフラワー

無論、光の当たり加減というのもあるだろうが、やはり後者(ドライフラワー)の方が色落ちしている。花によってドライフラワーにする際に色落ちしやすい、しにくいものがあるらしいが、色落ちしにくいものであってもやはり生花とは異なるだろう。

演出として、最初の「綺麗」(あえてこの表現を使わせてもらう)な花を映している部分では足音はせず、ドライフラワーに切り替わってから円香の足音がしている。これは、生花を映した方の部分は円香の想像であるということを表しているのだろう。そして、ドライフラワーを手にした円香を映した部分ではカサカサと葉がこすれる音声が流れる。ドライフラワーであるため乾燥しきっている物寂しい音で、これはもはや生花ではないということを強調しているのだ。

【ピトス・エルピス】で得られた知見を(少し無理やりに)援用すると「ドライフラワーは違う。違うものは、違う」、つまり円香が信じる「美の正解」とは違うということなのだろう。また【ギンコ・ビローバ】の観点から見るのであれば、「美という『言葉』をドライフラワーに適用するのは違う」ということでもある。


ノンフィニート

フィニート・インカーターテム(呪文よ終われ)。ノンの接頭辞がついているということは、「終わらない」ということだ。

※(3/22)何故か「インフィニート」になっていたので修正しました。
「インフィニートじゃなくてノンフィニートですよ」という話を執筆前にしていたはずなのですが……気をつけます。

しかし、「ノンフィニート」とタイトルにありながらいきなり円香がやってきた廃墟などを巡る連載が終了することが明かされる。タイトルから考えて、「人気だからもう少し続くよ!」という話になるのかと予想しながら読んだのだが、その予想は外れた。終わるものはきっちりと終わる。「ノンフィニート」は別のところにあるのだ。

では、「ノンフィニート」はどこにあるのか。候補は二つだ。
一つは「くだらない話」。もう一つは「今」。

分かりやすいのは「くだらない話」説だが、「今」説も読んでもらえば中々に面白いと思う。というわけで、まずは「今」について説明しよう。

あなたは欠けたものを そのままに愛する人では
過去ではなく今を見る人では

「ノンフィニート」

「今」という時間は常に去っていくものでありながら、常に途切れないものだ。「過去」は終わらずに存在し続けるものでありながら、同時に終わったものであり、未来はいずれ終わる(今になり、過去になる)ものだ。だが、「今」という時間は終わることがない。

この「今」の捉え方は意外なところに潜んでいる。以下の部分を読んでもらえれば、ひと目で分かるだろう。

今日がまた 訪れる それは儚い夢のよう
不思議と高鳴る胸に 悪くない気がしたんだ
(中略)
今日がまた 過ぎてゆく オレンジ色に染まる街
どうして? 見慣れたはずの 夕日がやけに眩しい

「夢見鳥」1番&2番サビ

そう。皆さまご存知「夢見鳥」だ。ここでは「今」ではなく「今日」であるが、その構造は同じである。「今日」は訪れるものであり、同時に過ぎていくものでもある。だが、自分が生きている時間が「今日」でない瞬間などありえない。我々は、日付が変わった瞬間は「明日に来た」ではなく「明日が今日になった」と捉えるのである。

つまり、円香視点において「欠けたものをそのままに愛する人」「過去ではなく今を見る人」であるプロデューサーは、「私がアイドルであろうとなかろうと(今という時間が終わらないように)終わることなく、目の前にいる人間を愛し続けるだろう」人物なのである。「ノンフィニート」なのは「今」であり、「愛情」であるということだ。ちょっとばかりロマンチックが過ぎる気もするが、どちらも「目に見えないもの」という点で基準はクリアしている。

ちなみに、シャニマス4thライブのタイトルは「空は澄み、今を越えて」である。「今を越えて」という表現はここで述べたものと異なる価値観のもとに書かれたものであるが、どちらかがおかしいということではない。
円香Pはぜひ「夢見鳥」の「今日」の価値観を胸に秘めた上で「今を越え」ようとする樋口円香を応援していただきたい。

「あなたの言葉は、一体、どこまで本当なの」という疑いをかけ続けながらも、今までの積み重ねがあるゆえに、プロデューサーの善性を(その善性を好ましいと思うかどうかは別として)疑うことはもはや出来ない。

なお、当然だが「プロデューサーの愛が終わることはない」というのは円香が相手である場合に限ったことではない。全アイドルに対して言えることだ。それを履き違えてはいけない。

次は「くだらない話」であるが、これはコミュに書いてあるままなのだから単純だ。

まあ 
どうせするんでしょ
この仕事が終わった後も くだらない話

「ノンフィニート」

これは、「プロデューサーとの関係」くらいに読み解いておけば良さそうだ。ある意味ではプロデューサーの善性に触れ続けるということでもあるから、極端なことを言ってしまえばシャニPの愛が終わらないとも言えるが、流石に「くだらない話」からそこまで飛躍させるのは気持ち悪いのでやめておこう。

ここまで書いて少し満足してしまったが、「ノンフィニート」というコミュ名に触れただけで終わるわけにはいかない。次に「欠けたものをそのままに愛する」ということについて書かねばならないのだ。

「今」について触れた時に書いている通り、「欠けたものをそのままに愛する」というのは「プロデューサーは、例えアイドルたちがアイドルをやめても、彼女らを愛し続ける」というのと同義だというのは、先程も述べた。円香は、プロデューサーが、ただ目の前にいる人間を当たり前に慈しみ、愛することができる人間だと認めているのだ。

円香は、そう簡単にその思いをプロデューサーに伝えたりはしないだろう。それを知ることができるのは「円香目線」を覗くことが許された「ユーザー目線」の特権だ。まあ、その特権のおかげで【カラメル】に文字通り絡め取られてしまうようなことも起きるのだが。

この場面は、円香にとってプロデューサーが「ミロのヴィーナス」になっているとも言える。

――あなたも心をさらけ出しているようで
  本当のところが、私には見えない

「ノンフィニート」

見えないところを脳内で補って出力されたのが「過去ではなく今を見る人」という評価なのである。

もちろん、円香が言ったように、黄金比で構成されていることもあるけれどこの彫刻の魅力は、多分、目に見える部分だけじゃない

「序」

プロデューサーは「黄金比で構成されている」のか、そうではないのか。
それはこの記事を読んでいる皆様の脳内に委ねることにしよう。

TRUE:美しいもの

予め言っておく。読者の皆様が何よりも読みたいであろう最後の部分。あれについては詳しく言及しない。「何が肝であると考えているか」だけを述べ、その結論は別の記事の執筆者にぶん投げているのだ。是非【オイサラバエル】についての記事を検索し、見つけていただきたい(本記事投稿時には恐らく投稿されていない)。

最も重要な部分に語る前に、周辺から埋めていこう。

朝が来る
花が開く
土が湿る
透き通る

「美しいもの」

最初のこの部分は、恐らく円香が好ましく思うもの(全てを「綺麗」と表現して良いのかどうかは悩ましい)を列挙したものであろう。私は過去の記事で【カラカラカラ】の「水、風、緑」について、これらを含めた自然を円香は好きなのであろうと書いた。ここで例に上がってくるということはやはり間違いなさそうだ。ただし、虫はダメだ

少なくとも「花が開く」に関しては「ドライフラワー」という円香が綺麗とは呼べないものに対応しており、綺麗なものと断定することができるだろう。

さて、本題に入ろう。このコミュで特徴的なのは、【ピトス・エルピス】を思わせる明転の演出と、序に続いて2回目のプロデューサーのセリフでの暗転である。「美しいものの話」はTRUEのタイトルになる程度にはクリティカルワードであったわけで、暗転演出が入ったプロデューサーの発言は、他のセリフよりも重視せざるを得ない。

目を閉じたほうが、この花が見える気がする

「美しいもの」

この言葉の後に明転演出が入り、以下の円香の独白が続く。

透明、なのかもしれない
美しいものは

「美しいもの」

さて、【ピトス・エルピス】「gem」ではプロデューサーが「樋口円香には激情がある」という確信を得た後、「それは、大切なものをしまうために作られた箱だった」で明転する。美しいものに触れ、気付きを得た後に明転しているのだ。

プロデューサーの気付きからの明転に対し、今回は円香視点での明転。これは対応関係にあるものであると見ても問題ないように思われる。

【ピトス・エルピス】がプロデューサーが円香の核心を垣間見る話であるとするならば、【オイサラバエル】は円香がプロデューサーの核心――円香の中にある「激情」と同等の「美しい何か」を垣間見る話(同時に円香の核心も見られているのだが)ということだ。
もちろん「序」で述べた通り、プロデューサー及びユーザーは円香の価値観の核心に触れた。心を覗きあった、とまとめておこうか(「通わせあった」とするのはあまりに楽観的に思う)。

あくまでこれは感覚的な推測だが、この「目を閉じたほうが、この花が見える気がする」というプロデューサーの言葉は「――あなたも心をさらけ出しているようで 本当のところが、私には見えない」のを超えて、一瞬プロデューサーという人間の本当の心を透かしてしまうような力のある言葉だったのであろう。

ガシャ名の「SHEER」――「(生地が)ごく薄い,透き通るような」の意味を借りて述べるなら、「心の核心を覆っているヴェールがある。それはとても薄く、ちょっとした発言によって奥が透けて見える」とでもいったところだろうか。

そして、最後の独白は暗転。「元に戻っている」のである。
ヴェールが捲れるのは一瞬だ。

朝が来る
水が滴る
酸素が満ちる
透き通る
透き通る(透き通る……? という感じの読み方)


と お

「美しいもの」

さて。先程も言ったようにこの部分について詳しく述べることはせず、何が重要であると考えているかだけを述べる。
重要なこと、それは。

「言い切っていないこと(活用形が確定していないこと)」だ。

要は好きに解釈すればいいぞということだ。


蛇足

さて、一番大切なところは書き終わったわけだが、もう一つ言及しておきたい部分がある。以下の会話である。

「まあ、俺の感想はともかく いいものをもらったな」
「はい」

「美しいもの」

これは円香の本心だと思うだろうか? 私はYESだと思う。

矛盾すると思うだろうか? 確かに、円香は廃墟を「綺麗」と思えないし、ドライフラワーも同様だ。しかし、必ずしも「綺麗」であることだけが価値ではないだろう。もしもプロデューサーが「綺麗なものをもらったな」と言ったのであれば、円香の反応はまた変わったものになっていたと思われるが、「いいものをもらったな」であれば問題なく頷くことができるのではないか。

現在放映中のアニメ『その着せかえ人形は恋をする』の主人公である五条新菜のセリフに、こんなものがある。

あの日から俺にとって「綺麗」は…特別なものに対する言葉になって…
心から思った時でないと言えないと言いますか…

『その着せかえ人形は恋をする』1巻 p.182

これはコスプレイヤーの写真を見せられて「キレーじゃない?」と言われた時の言葉なのだが、五条新菜は決してその写真が悪いと思っているわけでも嫌いなわけでもない。ただ「綺麗」という言葉を使うのが躊躇われるという話だ。円香にもそういう「特別な言葉」であったり、(一部の)語の運用に対する厳格さがあるというだけなのだ。

おわりに

「老いさらばえる」に当てはまらない「目に見えないもの」。
歳をとってアイドルとしての最盛を過ぎたとして、いつかアイドルではなくなったとして、円香の中に燃える「激情」は衰えていくのだろうか? 「今できる」「一番いいものを届けたい」という気持ちは、衰えないのではないか。円香以外のアイドルたちにも、「激情」や「激情」と言うようなものではなくとも「熱情」がある。きっと、その火は燃え続けるのだろう。何故か、それだけは確信できるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?