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第八回 昭和世代の仮想通貨入門③(ATMと取引所)

前回の続きになりますが、マイラーとマホ夫婦の企業はビットコインマイニングのネズミ講的な拡大手法で拡大を図っていました。並行して一つのビットコイン利権を抱えていた。ビットコインATMです。日本円ですぐにビットコインを購入できたり、ウォレットに入っているBTCを円に両替したり出来ました。彼らはそのATMを六本木の廃れたスポーツバーと名古屋の2件に設置していました。ATMは現在であれば、ネットワークでどこかの取引所と繋がっていなければならないのであったが、そのATMは「繋がっている風」のモニターを装備しているだけで、どこかの取引所から勝手に価格情報を何分かに一回ネットで吸い取っている程度のものであった。(つまり、相場自体が正確かどうか疑問)ATMのどこで利益を得るかというと、一回の手数料を設置者サイドが勝手に決められるという夢のようなマシンでした。その手数料から設置者である彼らと店舗サイドで取り分を折半するものであった。このマシンは買い取りが原則で当初は一台200万円で販売されていました。ところがそれではなかなか現在のようにBTCの取引量も多くなかった時代にペイするまでに天文学的歳月がかかることがわかってきたのです。彼らの対応は素早かったです。マシンの価格を40万円に80%プライスダウンして売却するように変更しました。(ちなみに私には20万円で良いと言われました)そのマシーンが例の引っ越したばかりの五反田のすっからかんだったオフィスに20台ほど送られてきて一気に在庫を抱えることになったのです。担当者は先日の番頭である山中氏(仮名)が半ばマホに押し付けられるかのように担当していましたが、六本木はまだしも名古屋の店舗からも最低一週間に一回は呼び出しが閉店後の夜中にあるという強烈なブラック企業でした。しかもこのマシンは開発者と言われているインド人がいないと故障しても回復しないという仕組みでした。紙幣の補充や故障対応等も含めれば確実に赤字だったはずです。しかし、みなさんは興味がなかったかと思いますが、その頃は秋葉原や中野のオタクショップの周りにはこんなインチキなATMの箱が割とありました。それを考えると、オタクというのは日本の最先端を行く人種なのだな、と思わざるをえません。その箱それぞれに手数料があり、ほぼ独自のレートでビットコインで日本円を払い出したりしていると考えると恐ろしい世界でした。取引所は自ら名乗れば取引所であるという、コピーライターのそれのような時代でした。結果、ATM事業は想像通り、一時代早かった秋元康プロデュースのアイドルのように泣かず飛ばずで、後に設置には金融庁管轄の取引所以外は違法となったため、在庫を処分するのに大変だったとは後日聞いた話です。

ここでわかったことは取引所間の価格の歪みです。六本木のATMと中野のATMでは価格が違うのです。今ではそのようなことはほとんどないのですが、この時代は全体的にそういう時代でした。そこに目をつけたのが、先に登場した川本と上田のデコボココンビでした。彼らは怪しげな仮想通貨人脈に飛び込みでSNSなどを頼りに突入し、マイラーの資金力も利用し、ありとあらゆる裏の世界の人間と繋がってしまったのであった。その魔の人脈を利用して即席取引所を自ら始めたのです。当時は外国人マフィアや日本の反社会的勢力等の黒いマネーを洗浄するのに監督官庁のない仮想通貨は格好のシステムでした。大きな山が上田の営業努力で転がり込んで来るのに時間はそうかかりませんでした。「3億円分ビットコインを購入したい客がいるんですよ。」とマイラーに唐突に相談している上田の横にアドバイザーとして座っていました。慎重に対処したほうが良いというアドバイスを聞いたか聞かないかの段階で、人と顔が良いことだけが取り柄のマイラーが「3億円分のビットコインを用意すればいいのね。」と言って彼のマイニングねずみ講仲間からギリギリ集めて自ら大きな画(え)を描いた。その画とは3億円分のビットコインを仲間から即現金にする(当時ビットコインを日本円現金化するのには時間がかかった)というメリットをちらつかせ、2億5千万円程度で購入することを約束して集めまくりました。それを3億円で売却するので仲介に入るだけで5千万円儲かるという寸法でした。金融庁の管轄になる前の取引所なんて、こんな即席取引所がいくつもあって、価格も東京、シンガポール、韓国、インドなどで全く違うこともザラでした。ただ、そううまくいく話も多くはなかったのです。(つづく)

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