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【プロポ6】常に何かの初心者であること

プロポ

プロポとはアラン『幸福論』に代表される文筆形式を表すフランス語。短い文章で簡潔に思想を著すエッセイのようなもの。日本では「哲学断章」とも訳されます。アランのそれは決して学問として哲学というほど仰々しいものではなく、アランが人生で培ってきた教訓や行動指針を新聞の1コーナーに寄稿するという形で綴ったもの。僕も見習って、頭を行き来する考えをプロポとしてまとめることで思考を整理していきたい。

僕のブログ「持論空論」で展開していたものをnoteに移行しました。

【プロポ6】常に何かの初心者であること

 「初心忘るべからず」という言葉は、普通、何事にも慣れてきたからといって、初めに抱いた気持ちを忘れるべきではないという意味で使われます。それは緊張感だったり丁寧さだったり、ひとつひとつの手順にこめる心だったり。今回書きたいのは、これとは似て非なる「常に何かの初心者であるべし」ということ。僕たちは初心を忘れないだけでなく、実際に常に何かしらで初心者であるように生きてはどうかと提言してみたいのです。

 初心者には初心者だけの「心のモード」があると思っています(「初心者モード」と呼んでみます。)これは普通「初心」という言葉で表されるものとは少し異なります。初心というのは、自分で意識的に持とうとする考え方や姿勢の話ですが、初心者モードであるためには実際に初心者である必要があり、初心者であるためには周囲に熟練者がいる必要があります。つまり初心者モードという状態は、熟練者との関係を通して初めて生まれるモードなのです。そして僕は、僕たちの日常に、常に何かしらで初心者モードになる機会を組み込むべきだ、と考えています。

 最初にこの考えに思い至ったのは、僕が空き時間に家庭教師をする傍ら、新しい職場に正社員として入社してすぐのことでした。家庭教師として指導する科目や受験までの学習計画について、僕は生徒から見れば熟練者です。入社前当時の僕の日常の中には、家庭教師以外の時間を見渡しても、初心者である機会はありませんでした。しかし入社を機に、全く知らない街に引っ越し、全く知らない業界の全く新しい職種で、全く新しい人たちと働くということは、生活も、仕事も、人間関係も、すべてにおいて初心者モードになるということでした。ここで良かったことは、家庭教師業だけはリモート授業を実施していたので、それまで通り継続したことです。初めてだらけでも、この熟練者モードだけは保つことができた。こうして僕の生活は9割の初心者モードの中に1割の熟練者モードがあるという形になりました。

 会社で熟練者たちに囲まれると初心者モードの自分の感じ方や振る舞いがよくわかります。しばらく自分の初心者モードを観察する日々が続く中で、熟練者モードとして家庭教師の仕事に望んだある日のこと、目の前の生徒が初心者モードとして抱えている気持ちや考えがわかったような瞬間がありました。彼が自分の指導をどう受け取るか、どのような指導をすると彼が動きやすくなるのか、これらが以前までよりも明確に想像できるようになっていることに気がついたのです。それは僕が会社で上司や先輩という熟練者からの指導受け取っているという初心者モードの経験が、僕が熟練者として家庭教師をしているときに目の前にいる生徒の初心者モードの経験とシンクロして響いたがゆえに起きたことでした。この経験から僕が導いた命題は「人にものを教える以上、教わる立場であることをやめるな。」そして初心者として何かを教わる立場でいるためには、常に新しい何かを始めなければならないということでもあります。

 2、3年の間、この命題を守って生活をしました。何か新しいことを始めて初心者モードを取り入れるタイミングは、「現在自分の日常にあるものから初心者モードになる機会が消えたとき」です。つまり自分のモードを常に観察していて初めて判断できる。例えば僕の場合は、新しい会社での仕事を1年ほど続けた頃、会社の人間関係や業務の流れにひととおり慣れた実感があったので、このタイミングで中国語を習い始めました。中国語を1年ほど学習して慣れてきたころには個人契約の家庭教師を辞め、教育系NPOに週末アルバイトとして所属して新しい教育活動を始めました。このように命題に沿って生きるうち、この習慣には命題が示すよりも広くて深い効能があるのではないか?と考えるようになりました。

効能① 何かに熟練することと人間的に優れることには何の関係もないことに気付く

僕たちの生活は繰り返しに溢れています。同じ環境、同じ仕事、同じ人間関係、同じ娯楽。人間誰でも同じことを繰り返していれば「慣れ」てきます。慣れはある意味で熟練です。よって、熟練というのはある一定の極みに達するものを別にすれば、ただ長年やっているから慣れているだけという場合が多いわけです。継続していること自体が素晴らしい場合もありますが、惰性で続けていても慣れは起きます。だから初心者と比べて自分が熟練していることがあっても、それはただの慣れによる部分も大きい。しかし、実力差がでることで熟練者は、初心者よりも自分のほうが「優れている」のではないかと勘違いをします。同じことの繰り返しも長くなり、自分が慣れていないことをする場面がほとんどなくなると、自分が「優れている」と誤解できる景色しか日常に入ってこなくなります。こうなると次第に自分が「優れている」と思っている状態に「慣れ」てしまい、プライドが育ってしまいます。こうなってから何かの「初心者」になるのは結構しんどいと思うのです。長年同じ企業で勤め上げた方が定年退職後に全く別の仕事やアルバイトをすることができないというケースは珍しくありません。この俺がなんでまた初心者扱いされないといけないんだ、という気持ちも理解できますし、俺が評価されたのはあの会社での話で井の中の蛙だったのか、という疑念と向き合いたくないという気持ちも理解できます。これが新しいことを始めなかったことの弊害で、初心者モードを忘れてしまったことの弊害です。俗に「年を取る」と言われる心の硬化現象です。これを防ぐために、僕は、常に何かの初心者であり、常に恥と思わず間違え直され、熟練者を見上げて生きる機会を、日常に組み込んでおくべきだと思うのです。

効能② 生活全体の謙虚値と丁寧値の下振れに歯止めがかかる

 初心者モードの特徴には、謙虚さと丁寧さがあります。初心者である以上、熟達者を前にするわけで、もちろん謙虚にはなりますし、初心者は知識や技術について常に不安を抱えますから、丁寧にもなります。これは僕が自分を観察して生きる中で最近気が付いたことなのですが、この謙虚さと丁寧さというのは、常に自分の中で変動しているものなのではないかと。もちろん人それぞれの性格が持つ本性としての謙虚さと丁寧さはあるでしょう。しかしこれらは環境によって可変なものであると。ではその時々の自分の謙虚さと丁寧さの度合いがどのように決まっているのかと言えば、「現在自分が日常的に参加しているすべての組織や人間関係や仕事の、それぞれの現場で発現している謙虚さと丁寧さを平均値にならしたくらい」になると思っています。常に自分の中には、基準となる謙虚値と丁寧値みたいな数値があって、それがベースになっている。よって、初心者モードになる機会を失うと、謙虚値と丁寧値の基準値を引っ張り上げてくれる機会も同時に失うわけです。そうすると、仕事も慣れ、人間関係も慣れ、環境にも慣れ、という感じで、さらに悪く言えば「慣れ」を超えて「舐め」が出てくる。こんなもんでやっておけばいいだろう、この人はこのくらいなら許してくれるだろう、などという感情。それは仕事や人間関係の勘所を掴んでいるということなので、決して悪いことと断ずることはできず、むしろ良い仕事をし、良い人間関係を保つためには、物事に強弱や濃淡をつけるための知識として有用である場合も多いとは思います。しかし、こればかりになってしまうと、楽な場所に安住した高慢または粗雑な人間である自分にも慣れてしまうというリスクがあります。よって、常に生活に初心者モードを組み込むことには、初心者モード時の高い謙虚値と丁寧値を内発させることで、謙虚値と丁寧値を底上げするという効能が期待できるというわけです。

効能③ 自己肯定感の向上と興味の拡大

 3つめの効能は副次的なものです。人間が何かを習得するときの伸び方を示す「成長曲線」というものがあります。縦軸が成熟度で横軸が経過時間。よく知られている事実ですが、成長曲線は時間と共に鈍化します。習得を開始した直後がイチバン伸びるということ。つまり、初心者モードであるときは最も自分の成長がはっきりとわかる時期なのです。何かしらで初心者モードを脱するたびに、別のもので初心者モードを補完するという生き方は、常に自分が何かで成長し、その成長が見えやすいということでもあります。これは自己肯定感の向上につながります。また、常に何かを学習・新規習得している状態になるので、自分が物事を学ぶときに踏む一般的なステップや躓きやすい内容に傾向が見えていきます。すると、自分が物事を学ぶときに取るべき手順や学習パターンを修正し、より適切なものに更新していくこともできます。こうなると後は好循環で、最適化された学び方を実践することでさらに初心者モード時の成長曲線が鋭くなり、自己肯定感はさらに安泰となります。

 同時に、常々新しいもの触れている状態では、興味の幅が自動的に拡大していきます。興味と言うのは普通なくてもともとでしょう。誰しも生きていればいくつか自然に興味を抱く対象が見つかるので、興味というのは先天的なもので、自然に抱くものだと思われているきらいがあります。しかしこれは誤った認識だと言わざるを得ません。興味というのは、やってから始めて抱くのが普通です。やったことがないもの、見たことがないものに興味がないのは当たり前で、知らないから興味が持てないのです。例えば、僕は絵には特段関心がなく、世界的な美術館で有名な絵画を見ても綺麗だなと漠然と思うか、社会的・歴史的な意義から鑑賞するに留まっていました。しかし昔から絵が上手な人たちへの憧れがあったため、絵を描くこと自体に深い喜びを感じるわけではないのですが(文章を書くことに深い喜びを感じるのに)、気まぐれに数枚水彩画を描いてみました。そうすると、今までなんとなく眺めていた絵の細部にまで、描いた人の意図やあるという当たり前の事実が、魂に肉迫してくるのです。理屈ではわかっていたことを経験を通して心で理解したという感じです。自分は下手なので、基本的に誰の絵を見ても参考になることや感嘆してしまうことばかりです。こうなると、今まで漠然と見ていただけの絵画も、長時間観ていられるのです。これが、興味を抱くということだと思います。このような興味に抱き面白がれる対象が多い人生は、すなわち豊かな人生だと思います。これが初心者モードである効能の3つめです。

 初心者モードであるためには熟達者が目の前にいる必要があると述べましたが、これは必ずしも組織に入ったり、習い事を始めたりという形である必要はありません。Twitterの絵師をお絵描きの熟達者としても良いし、YouTubeのフィットネス系の投稿者を筋トレの熟達者としても良いのです。とにかく出来ないことをやり、初心者であること。お金をかけなくてもできることです。ただ、出来るだけ成果を他人に見せる機会があるのが望ましいです。それでこそ効能①②が効いてくるので。「常に何かの初心者であるべし」。これまで僕が考える範囲では100利あって1害なし生活習慣。これからも自分の胸に留めておきたい言葉です。


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