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リュカちゃん(4/11)

最初は偶然、東京のカフェでばったり会った。
渡仏前にリュカちゃんには絶対に会っておきたい!と強く思っていて、今日は時間を作ってもらった。彼女のアトリエにUber Eatsでトルティーヤを届けてもらい、二人でロール状になったタンパク質を頬張りながら、あれやこれやと会話をする。

私たちは本当によく話すんだけど、言葉だけが無音の中に次々と並んでいくように理路整然として、この感じはリュカちゃんとの会話でしか生まれない。
迷うことが悪いのではないが、私たちは信念にあまり迷いがない部分が多いからだろうと思う。
というよりも、自分で立って沢山迷って考えることが好きで、そこから形作られたものをシェアしたいタイプなのかも知れない。

そんな私たちには細かいキャッチボールはそんなになく、行き違いも殆どなく、軽やかにシリアスな話を噛むことすらなく互いに流暢に話していく。途中で遮ったり、訂正したり、つっかかることもない。

「蝋燭の火と言葉があれば良い」みたいなシンプルさは、私たちがすごく違うようで実は結構似ていることを表している。派手な装飾を要求しない感じ。
私も物欲があるようでそんなにないし、リュカちゃんにしてもそうだと思う。「とても気に入っている大切なものを大切にしてる」それだけの世界が大前提。

話す相手によって同じテーマでも色んな発露があって、言葉を置いて、積み上げて行く課程も手法も異なるのだから、最終的なデザインは千差万別だ。
そのどれもが当事者自身であるわけだけど、私の周りの(ある意味で、この人の(精神的な)近くにいたいと思える)人たちとは、高い熱量を帯びて影響し合えるので強い縁のようなものを感じる。
自立、地球、戦争、やさしさ、表現、音楽家の在り方など今日話していたような真面目な話であればあるほど、この一致は重要で、また、それは簡単ではない。

「言わなくても分かってくれてるだろう」という一方的"当然"による怠けや甘えが原因で起こしてしまう人間関係の失敗もあるが(気をつけていてもたまに発生するので、都度微調整をして生きている)、細かく注釈を入れずとも感じ取ってくれる部分が極めて多い人もいる。到底 "当然"とは思えない。

別れ際にハグをして、夜道を歩きながらリュカちゃんの余韻と会話の続きをした。

「たまに色んな宝物を交換しながら、互いに楽しく生きていこうね!」と宿に着いてからメールを入れる。しばらく会えない寂しさの一部を預けてしまったわけだが、彼女はすんなりとそのまんまで受け取ってくれた。

全ての経験は宝物だと思う。
友人にはいつでも惜しみなく、私の大切な宝物を分けてあげたい。
そうじゃないと、彼らからもらった宝物で私ばかり溢れてしまいそうだから。

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