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同業者との恋愛(7/2)

朝からとあるミーティング with JAPANということで、ズームミーティングに臨んだ。ズームミーティングをする機会が増えてきていつも思う。

「自分が想像しているより自分の顔って長い」

自分の顔はたいてい鏡越しで見ているために違和感があるのは当然ながら、なんかジャガイモみたいで長い。その昔、ジャガイモだなんだとネット上でディスられたが、実際にジャガイモなので彼女彼らの指摘はあながち間違いでもない。(でも、誹謗中傷はだめですよ!)

その上、他の参加者の顔をよく見ようとしてパソコンの角度を広くするものだから、変なところで自分の顔が切れたりする。
ズーム株式会社(か知らんけども)や世の中の皆さんにおかれましてはどうお考えか。

こうして思考を文章にすると、自分の集中力が如何にアリ並かがよく分かる。世の中のアリ、ごめん。
自己認識の行程はやっぱりとても好きだ。
改善はなかなかできずとも、自分のことが分かってくると他者に配慮ができるようになるからだ。このサイクルを日課にできていることは、自己中心的な自分のせめてもの懺悔のようでもあり、社会参加のひとつの形だと思っている。

今日は、制作チームさんが私の日記を読んでくれていることが判明したので一気に照れ臭くなり(もちろん、とっても嬉しい)、昨日の日記の続きを書くのも憚られるが(別に全然気にしていないくせに一旦そう書いてしまう)、最近の出会いについての続編その1を予告通りに先発投手にしたいと思う。(いちいち野球に絡めるとこ本当うざい)

私は遥か昔に同業の人(ミュージシャン)と付き合っていたことがあるのだが、まあ色々あって別れることになった。終わったことにはできるだけ恨みっこなしで行きたいと思うので割愛する。

それ以来、私は「絶対に同業者とは付き合わない」と決めて生きてきた。思い起こすと10年くらい、その気持ちを貫いてきたことになる。

勿論、とは言っても10年の間に仲間は増えた。それこそ10年前には同業の友達なんて殆どいなかったけれど、いわゆる”大人になってからの友人”ができたことも嬉しかったし、仲間の存在に支えられてきた場面なんて、数えたら何日もかかってしまうほど多くある。
その人間的な愛情や尊敬や喜びは「幸せ」という言葉以上にピッタリくるものがない。

自分が大好きな同業の仲間や友人について、幾度となく公の場でも触れてきた。大好きなものは大好きと大声で言いたい。それが私の性分である。
世の中はまだまだ相手が異性だと、やれどうせくっついてんだろとか、匂わせとか、すぐそういう話になるのだが、その度に「いや、なんでやねん!」と心の中でツッコミを入れる。
でも、その仲間や友人に伴侶やパートナーがいることを勝手にバラすことはできないし、世の中には関係性にルーズな人も沢山いるので、パートナーがいても手を出してんだろブス!みたいな、まあ勘違いされても仕方なかったり、とにかく世界って面倒くさい(笑)。皆んなそんな暇じゃないでしょ(笑)と思うのだが、私の熱量が低いだけだろうか、それとも彼らは暇なのだろうか。

大好きな友人を大好きと言って何が悪いのさ?て思うけれど、でも昨日も書いた通り、一方で相手の言い分も理解はできる。自分が好きなアーティストに、お前のごときが仲良くするな!とか、お前もパンピーに毛が生えただけだろ!とか。私にとっては「会社の同僚」とか「先輩、もしくは後輩」みたいなチームメイトでも、ファンの人からしたら「神みたい憧れの的」と「ピアノを弾いてるらしいけど、名前も知らんし別にこっちがすぐ認めてやるほどの容姿でもキャリアでもない世武って女」という構図なのだから。

自分はそう思わなくても世の中のそれなりの人数がそう思っている。という状態は大いにあり得ると思う。その環境にあっても追求してしまう自由さとの葛藤、ジレンマは平行線を軸としながら、ゆらゆらと流れているから厄介だし小さな救いでもある。

そもそも、同性の友人とだったら匂わせにならないの?って、ジェンダーの話にも繋げることができてしまったり、実は壮大なひとつの源流に辿り着く無数の事例に生きているだけなのかもしれない。複雑ともいえるし明朗ともいえる。

話をミクロ世界に戻すと、そんな私なのだが、「同業者とは付き合わない」と人と出会う機会は殆どなくなる。何故なら私は全く社交的なことに興味もないし、仕事が大好きだし、練習もしないといけないし、一人で映画観て、一人でマツダスタジアムに行って、一人で野球観て(テレビ観戦の方ね)、一人で散歩して、一人で本読んで、一人で踊ってご飯食べてのんびりして独り言を言っているのが好きだからだ。
基本の生活は一人で成立してしまう。

正直言って「人恋しくて寂しくて辛い」と思ったことがない。むしろ、どんな好きな人でもずっと一緒にいるのは不可能だとすら思っている。何せ、小さい時から筋金入りの一人暮らしならぬ一人過ごし人生だから、それが当たり前なのだ。

なのだけれど、折角パリに15年越しくらいに戻るのだから、色んな概念を捨ててみたいと思って、この決め事も一緒に捨ててみることにした。

ミュージシャンとの出会いを特別に探していたわけでもないが、自分がパリに来てすぐくらいに、同じく地方都市からパリに上京しようと決めたベーシストのフランス人と知り合った。

別にロマンチックな話でもなんでもないが、全く初めて会った気がしない、というか昨日も会ってた?くらいの不思議な初対面だった。「僕のライブ観にくる?」って誘われてステージを観ても、自分がステージで演奏するのも当たり前、人が演奏しているのを観るのも全く珍しくないので、いわゆる「自分に好意のある男性のライブに誘われてステージで活躍している姿を見たら一気に恋に落ちてしまった!きゅん!かっこいい!」みたいな眩しさなど微塵もなかった。
なんだったら「あのハイポジで演奏してるの珍しいなって思ったんだけど、それあなたのスタイル?もしくはアフロジャズってベースがハイポジなのがデフォルトなのか気になる!ギターとユニゾンになってからまたローポジに戻ったとこ良かったけど、あれってアレンジどうしてんの?」とか、ロマンチズムのカケラもない質問を沢山繰り出したのだった。
「ステージからすぐに君を見つけたよ」と言われても「そうそう、ステージからって意外と顔見えるよね!」みたいな、終始そんな会話。

向こうは、そんな私のフラットすぎる立ち居振る舞いに困惑していたらしく、女友達に「どうしていいか分からない女子と出会った」と相談していたらしい(後日談)。なんか申し訳なかったけれど、だいたいこの段階で「こいつ、もういいや」と思われてきた人生だったので、その我慢強さと女友達には感謝している。
私はだいたいいつも誰とでもこんな感じなのだ。

「結局僕と仕事どっちが大事なの?」というお決まりの大嫌いなセリフを吐かれることもなく(だいたい過去の恋愛は、これで揉めてきた)なんだったらヒロコの仕事は天気みたいなものなんだから、予定通り行かなくたって別に気を揉むことはないよ〜!ってスタンスだったり、こちらの話をとにかく辛抱強く聞き、まず肯定してくれる。私も人の話はまず肯定したい、というスタンスなので、この感覚が共有されることは居心地の良さにも繋がっていると思う。

とになく、凡ゆる場面で「ええやつ」。

「同業でないことにこだわらない」と思えるまでに10年くらいかかったけど、その考えから解き放たれたのはなんだかんだとパリとの腐れ縁?とも言えるし、手放したら入ってくるものがある、という使い古された先人の言葉に唸るばかりである。新しいものと出会うスペースを自分の中に確保する。これは恋愛だけでなく、色んなことに言えるのだと思う。恐れない、ということ。

こんな話聞かされて誰がおもろいねん!と思ったりもしたが、私のように上手く生きれない人の何かの足しになったりもするかもしれないし、私もいつ死ぬかわからないし、「ええやつ」とどうなるかもわからないが、日記にはざっくばらんに書いてみようかなぁと思っている次第だ。

また明日!

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