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逃亡者

「海に行きたい」

真夜中に電話をしてきた友人はそう言った。

連日の激務。日付が変わる前に自宅に帰れればマシなほう。業務時間外は全てサビ残。生きる為のエナドリと10秒チャージを済ませて、シャワーを浴びたらその日はそれで終了だ。

ベットに入って、うとうとと微睡んでいた時、枕元のスマホが振動音で着信を告げる。

半分寝ぼけたまま通話ボタンをタップし「もしもし」と少し掠れた声で応答して、聞こえてきた第一声が「海に行きたい」その台詞だったのだ。

車で迎えに行くと「ごめん」と一言口にして、助手席に乗り込んでくる。

夜中に海が見たいなんてワガママを言ったことに対しての謝罪の言葉なのだろうけど、彼の表情が見えなくて曖昧に「うん」とだけ答えた。

高速に乗って2時間、地元の海を目指す。

冬の風は冷たく、真っ暗な海は波音だけが響く。

「寒ぃな、やっぱ」そう言いながら彼は手に持っていた紙袋から数本の花火を取り出した。

「部屋の掃除してたら、クローゼットの奥から出てきた」

いつのものか分からないし、湿気ているかもしれない。それでも、火がつくかもと僅かに期待して、試しに持ってきたのだと彼は言った。

カチカチとライターで火を着ける。なかなかつかなくて、ダメか、と思った瞬間、勢いよく火花が散る。

年甲斐もなく、おー!という歓声があがる。

「火がついて、よかった」

そういって彼は笑いながら花火を見つめる。

男2人で花火なんて。しかも冬の夜に。

これが女の子なら少しはロマンチックだったかも、とか。もう少し仲間がいれば盛り上がったのかな、とか思ったけれど、彼は俺と2人だけの花火を選んだ。

勢いよく火花を散らして花火はすぐに消えてしまう。数本繰り返し、最後の1本が消えるとまた静寂が訪れる。

「終わっちゃったな」

消えた花火を砂浜に捨てた彼はゆっくりと波打ち際へ近付いて行く。

何故だか止めなくてはいけないと思った。

海を見に来たのだから、別におかしくはないのに。

この何もかもを覆い隠すような暗闇が不安にさせる。

砂浜を歩く足音が波の音で消えてしまう。

「待って…」

波打ち際で佇む彼がこちらを振り向く。

憂いでもない、悲しみでもない、諦めでも、絶望でもない、それなのに、助けを求める顔を彼は、していた。

駆け寄り、力強く腕を掴む。

置いて行かれるような気がしたのだ。俺を置いていなくなってしまうような気がしたのだ。

彼が屈むように両膝に手を置き、俯き、か細い声で呟く。

「俺、この海も好きだ」

きっと、海に行きたいなんて言葉に意味なんてなかった。俺も海のある街に生まれた彼に、自分の街の海を見せてやろうと思った、ただそれだけだったんだ。

いつも笑って、何もかも平然とこなして生きてる彼が、海を見て俯いて、歯を食いしばって泣く姿を見なければ、意味なんて生まれなかった。

「こわいんだ」

震える声で吐き出した彼の言葉は、波の音にかき消されてしまいそうなほど、あまりに小さく弱々しくて、泣きたくなった。

その背中は僅かに震えていて、怯えていた。

波が引くたびに、俺たちの足下は危うい感覚にさらされていく。

簡単に大丈夫とも言ってやれない。それでも彼の不安を拭い去ってやりたい。

彼が口にした恐れの正体を俺は知っている。俺も感じた事のあるもの。

追いかけていた者から、追いかけられる者へと変化し、自分と周りが見えなくなった時の焦燥感。

足掻けば足掻くほど自分の首は締まり、聞きたくもない情報や言葉は鋭利な刃となって己や周囲を傷つけていく。

変わりたくないのに周りは急速に変化していて、自分だけが取り残されているような感覚。

泣いて叫びたくなるような感情が喉の奥底から湧き上がってくる苛立ち。

護ってくれるはずの仲間が信用出来なくなる恐怖。

彼のそんな姿を見せられたら、どうにもならないって、感情が溢れ出すって、こういうなんだって…知ることもなかった。

気付いたら、俺も涙が溢れて止まらなかった。

「なぁ、逃げちゃおうか?」

声を押し殺して泣く友人をどうにか助けたくて、でも俺たちは何も持っていなくて。
咄嗟に出た言葉はひどく震えてしまった。

「そうしたら、こわいものはなくなる。お前と俺と2人だけだ」

逃げたから何になるんだ、逃げたって生きていくにはまた同じ場所に戻るだけなのに。

「……」

「な?」

いつだって、誰だって、自分がしっかり立てているか分からない世の中だ。

苦し紛れの逃避行。

逃げたって何も変わらないと分かっている。
分かっているけれど、言葉にせずにいられなかった。

「まだ、逃げたくない」

ずっ、と鼻を啜る音が聞こえ、さっきまで揺らいでいた彼の瞳はしっかりと前を見据えていた。

「…うん」

「まだ、見たいものが沢山あるから」

「そっか」

「お前にも、まだ一緒にいてほしい」

「いるよ」

「もしまた、俺が逃げたくなったら」

「ん…」

「こうやって、一緒に逃げようって言って」

「うん」

「そうしたら、また戻ってこれるから」

「大丈夫、1人にはしないよ」


彼の表情は先ほどに比べれば幾分かすっきりとした、穏やかなものに変わっていた。

逃げたって何も変わらないと分かっている。分かっているからこそ、言葉にしたいこともある。

さあ、そろそろ戻ろう。

朝が来る。

日常が始まる。

逃げても現実は追いかけてくるし、眠らなくても昨日は必ず今日になる。

逃げくなったら、そうしたら、また一緒に逃避行でもしよう。

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