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考える、想像する(2)_隔離された地「延暦寺」にて。

2月のある日。
比叡山・延暦寺にいた。

ベルギーの展覧会で行われる予定だったレクチャーが、渡航直前の2日前でキャンセルになってしまった。これで何度目のキャンセルだろう。
日々情勢が変わる中で、急遽中止になった案件の後処理は続き、非生産的でマイナスな仕事ばかりで少しイライラしていた。

そんな折、ちょっとした仕事で京都へ行くことになったので、それならばと思い立って、比叡山・延暦寺に行ってみることにした。

東京の喧騒を離れて少し冷静になりたかったし、そういえば、延暦寺の僧侶たちは、長い歴史の中で、ある意味ずっと「隔離」されていた山の中で修行をして自己を覚醒していったんだよなと思ったからだ。

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まだ、その頃の日本は、ここまで深刻な事態になると考えていない人が多かったけれど、さすがにここに来る観光客はほとんどいなかった。

山の上はまだ肌寒く、雪もちらちらとそぼ降る中、おもむろに本堂に入っていった。

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シーンとした堂内で、飾られている代々の僧侶の掛け軸なんかを見回しながら、延暦寺の歴史に想いを馳せた。

1000年以上前から、僧侶たちは、この隔離された山の中で、疫病が流行った時も、戦乱の世でも、雨の日も風の日も、ただただ「祈る」ということをやっていた。

そういえば、「祈る」ってことってどういうことだろう?

あまり深く考えずに、小さい頃から神社なんかでは手を合わせていたりしていたけど、この行為自体は、本当はどういうことなのだろう?

つきつめてみると、「祈り」というもののその行為の本質は、”考える”ということではなかったか?

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裏切り、欲望、嫉妬、戦争…そして疫病。この世界はとっても理不尽にできていて、なぜこんなにも思い悩み苦しまなくてはいけないのか。
考えても考えてもわからない。
それでも考える。
それが祈りなんじゃないか?

考え続けることのその先。
つまり、それは「考える=想像する」ということなのではないだろうか?

あるゆるシチュエーションを先回りして考えておく、つまり想像することによって、大抵のことには覚悟ができる。考えもせずに、ただ騒ぎ立てれば不安はどんどん大きくなるだけだ。

祈る。
ひたすら考える。
未来を想像する。
経験・知識・閃きを結集して、とにかく想像する。

自分の中のにこそ、きっと、その答えがある。(そういえば、英語の「祈る・pray」はwishやhopeのニュアンスを含んでいる。)

僧侶と同じ、と言ってはおこがましいかもしれないけれど、アーティストという存在も、直接的に誰かを助けたり、直接的に何かの役に立つことはできないが、世の中に必要なものだ(…と信じている)。

ふと、自分のことを振りかえると、今までひたすら駆け足でここまでやってきて、なんでもスピード感ばかりを求めていた気がした。

でも、今、すぐに何を行動するのが正解かなんて、誰にもわからない。
早いか遅いかなんていうのも、誰も決められない。

ああしろこうしろという情報に煽られるけど、本当は今すぐやらなければならないことなんて無いんじゃないか。
まわりを見渡しても、こんな苦しい状況でも、いち早く行動を起こしている人もいたりして、行動を起こすことこそがポジティブなことに思え、気ばかりあせってしまう。

少なくとも、自分がそういう立場にはないのならば、今、するべきことは、むやみに行動を起こさずに、一回フーッとひと呼吸おいて、モノごとを深く考えることなんじゃないか。

今は(隔離された世界で)、未来を想像するということが、唯一、ポジティブな行為なのだ。…と自分の中で結論づけた。

東京に帰ってから、事態は深刻さを増し、さらにこの思いを強くした。

今は、アーティストとして、世の中にメッセージを投げかけるために、考えて、想像して、そして「言葉を作る」ということを、ゆっくりと自分なりにやっていこうと思う。

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