幸子力学

 幸せは、「幸せなのか?」と客観視した時点であまり幸せではなくなってしまう説を実感しつつある。二重スリット実験で電子を観測してしまうと結果が変わることと似ている。
恋に恋する状態のような、目的と手段の逆転というか。言語化、数値化、検証、自覚に躍起になりすぎることで不幸になるのでは本末転倒であって、たとえ顕在的幸福が得られずとも、潜在的幸福ならそれでいい。
「○○しているとき幸せ」といった自他の観測可能な顕在的幸福を否定するものではないが、「幸福なのは義務なんです」と自他への圧をかけるはあまり幸福ではない。
幸福であるためには検証を問わなくてもよい。顕在的でも潜在的でも受け止める。幸福の量子的側面も認めた方がより幸福に過ごせる時間が増えるであろうと期待できる。

 もちろん、顕在的に幸福という指標の使い方によってはよりよくなる側面もある。トヨタ方式のなぜなぜのように「幸せか否か」「自分が夢中になっているこれは本当にやってて楽しいのか」とかいう見直しを時々やるのは重要だと思う。ダメなのに、楽しくないのに、良くないのに物事にハマってやっちゃっていることもありますから、それを見直す機会として。
毎日毎日押しているのに一向に解決しなくて悩んでいるなら、一歩立ち止まって考えて、押してダメなら引いてみなと。でも、年がら年中なぜなぜをするのは疲れる。トヨタ方式でもなぜなぜのループ回数は5回ですからね。それ以上やってもあまり意味が無くて、自我とは?とか宇宙とは?に行きついてしまう。程度をわきまえているわけです。

主従関係を、見直した方が良いのではないかと。
逆張りオタクというわけではないのですが。

幸せという明示的に顕在化された指標を「主」として、個人の人生はそれを追求し付き「従」うべし、といったような世界観が一般的に見えますが、そうでなく、数値化や言語化は難しく必ずしもできるとは限らないが、良いと思うほう、気が済むほう、気に病むことが少ないようなほうに向かう取り組みを「主」にやって行けばいいんじゃないかと思うんですよね。そのための道具として、時には幸せという概念を「従」属的に活用することをしてもいい、と位置付けたほうがいいのではないかと。