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ふんどし

 以前に増田に書いたと思うんですが、VTuberやアニメなど追いかけることに一生懸命になっている自分って、自分の人生を歩んでいないようにも感じる。

H.P.ラヴクラフトがいうには、映画や芸術は、人生がうまくいってない人のためにあるという。まさにその指摘の通りなんだよな。

自分の人生が楽しかったらVTuberを追いかけることにそれほどハマらないし時間を割きすぎることも無いと思うんだよ。なぜなら自分の人生で忙しいし、満たされているから。
だからその逆で、自分の人生が楽しくなく、幸せになれないので、他人の人生を疑似体験したり、幸福な他人の人生にコミットしてその一部となることで、少しでも充足を得ようとしているのではないか。

それの是非ついて。

「何もない人生だけど、かわいい女の子のケツ追いかけるのは楽しいし、なにもしないよりぜんぜんマシだな」というのは、いまよりもガッツリとVTuberにハマっていた頃の自分の率直な感想。

あるいは祥太さんや、ありらいおんの人のような、ガッツリとコンテンツにハマりながらも自分を持つタイプの人もいる。
https://twitter.com/shota_

https://twitter.com/myrmecoleon

他人に依存し自分のオールを任せ振り回されるのか、それとも、一時的にエールを送りあうような関係を構築するか。


 一般論、依存先はたくさん持てというが、それは正論として頭で理解はできる。しかし何もない人生にとっては砂漠のオアシスみたくたったひとつのものに依存してしまいがちで。それほど追い詰められた人がたくさんいるわけで世の中には。「○○しか勝たん」というのは、たったひとつのものに依存してしまいがちなオタク心理を率直に表しているのではないか。
自分のやりたいこともたくさんあるんですけどVTuberも見たいし、見るだけでなくファン活動もしたいし・・・って後回しにしてるんですが、やっぱり時間配分をもっと自分のほうに割り振った方がいいかなーと。あれも欲しい。これもほしい。でも時間がないので睡眠が削られて体調悪くなる。欲張り。強欲。
自分の人生をやろうにも、壁が高いし報酬も少ない、努力が報われる保証もない。モチベーションが出ない。それなら、何かしたら喜んでくれるVTuberと一緒にいたほうがいい。インスタントな報酬が継続的に得られて脳が満足する。「毎秒配信してくれ」というVTuber用語はそういった脳の報酬系がVTuberに依存した状態に出る言葉だろう。

VTuberのファンアートを作るにしても神絵師や神クリエイターが名声やVTuberからの反応を総取りしていってしまう。正論、ファンアートはVTuberのために描くな、自分のために描けという。それはつまりは自分の人生をやれということだ。

この指摘がグサグサ刺さってしまうVTuberファンはどのくらいいるのだろうか。耳が痛くてブロックされるかもしれない。ここまで読んだ人はブロックしなさそう。
自分だけでなく隣の他人までも刺しかねない範囲攻撃、しかし、こういう考察を自分はしてしまう。というかそれが自分らしさ、自分の人生だと思うから。

転んだ人を笑ってはいけない。
彼は歩こうとしたのだ。
自分の足で。
戦い始めたのだ。
自分のふんどしで。