世界はみんなのもの、なわけない。

「世界はみんなのものだよ」と誰かが言って、きらきらと光る星空を見上げればその尊い星空の下、むずかしい名前の国でこどもたちは家を失くし、みんなが知ってる公園で薄着のホームレスは通行人に蹴られる。そんな世界だった。どうして忘れていたのだろう。期待とか。輝いて見えるものにはいつでも裏側があって、地球。わたしたちの踏みしめてる地面の下に、未知なんていう爆弾、隠してる。隠してもどうにもならないことってあるんだよ、きっと。わたしは、傷ついています。そんなのこの世界ではありきたりで、だから、みんな傷ついている。そういえば、シリアのジャーナリストが映画で言ってた。SNSの何百万のフォロワーはこの戦争を止めてくれはしないって。わたしは傍観者。わたしがいっぱいいて、みんな傍観者。この映画見てから心痛いのに、涙出たのに、明日からなんにもなかった顔して生きれちゃうんだ。わたしがご飯を食べている時に誰かが死んでいること、たまにしか気づけない。命を食べていることもよく忘れる。でも、それでも、謝ることはない。わたしは神様じゃない。大気がこの地球にわたしの形を、輪郭を、存在を許している。謝ることの前に、許されている。もしかして妥協してここにいるのかはわからないけれど、世界が空気の中にわたしを受け入れていることだけは確かだ。許していることを謝ってください。原罪なんて、情けなくなるよ。わたし、最初から罪なんて犯していないし、反省もしたくない。全部、神様のせいにすればいい。そう信じている、ただそれだけなんです。たぶん世界は人間の力では絶対に割れない水槽で、人間はその水槽の中でしか生きられない魚みたいなものだ。わたしはこの世界の中でしか生きられないから、限られたこの場所でせめて自由に駆けたかったけれど、所有とか領土とか国とか決まりができて、この地上でまったくの自由でいることが罪になった。家がなければ、罪になった。許可なく映画を撮ることが罪になった。大声で歌えば罪になった。自由を叫べば罪になった。どうか、あなたの家に一歩だけ入らせてください。そこは、わたしの大切な人が死んだ場所なんです。世界はどこも誰かの墓なのに、みんな自分のものみたいな顔してる。わたしはあなたを傷つけるために、ここに辿り着いたのではありません。況してや、あなたの幸せに他人に左右されるほどの余白なんてない。わたしはあなたの幸せを概念ごと吹き飛ばす、そんな爆弾なんて持ってない。(みんな核なんて持たないでいてよ) 悪意はなかったんです。ただ、星の綺麗に見える場所を探して、自由に歩いていただけなんです。上を向いていたから、あなたの敷地に入ったことに気づけなかった。あなたの家はどこにありますか。家は自由の場所ですか。世界は自由の場所ですか。世界は広いですか。世界はみんなのものですか。わたし、どこへ帰ろう。死なない限りこの水槽からは抜け出すことはできないから、ただこの世界の中をなんとなく泳いでいる。泳いでいるというより、浮遊している。顔の表面だけを空へ出して、息を吸ってみる。空気だけは本物であってね。全部、わたしのものではない世界。嗚呼、どこへ帰ろう。どこで眠ろう。穏やかに眠れる場所はどこにありますか。ほんとうに私が守られる場所はどこにありますか。法律も警察もほんとうを守ってはいない。信頼とかがなくても守れる幸せとか、それか、幸せの前提みたいなものを守っている。必要で、ありがたくて、でもみんな知らない人で、こわい。ひとりひとり違う人なのが、とても素敵で、とてもこわい。わたしもひとりしかいないから、地球にむき出しで突き刺さっているような気がして、肌寒い。雨が降ったら、雨宿りする場所か、わたしだけの傘がほしいです。それが家というものですか、それとも言葉というものですか。だからみんな自分だけの場所を求めるのですか。偉いとか、偉くないとか、年上とか、年下とか、お金持ちとか、ホームレスとか。地球に人間と空を結ぶ階段なんてものはないので、だから、みんな同じ位置に立っているはずなのに。地球の中身は知らないまま、中身が溢れ出ないように優しく突き刺さっている。優しくではなく、しょうがなくかもしれないね。立ち止まって、振り返ってみればみんな人間なのだ。人種や宗教が違うとか、わたしの親が嫌いな政党とか、そんなことで、わたしと会ったことも話したこともないのに、わたしのことを、わたしという存在以前に死ぬほどきらいな人が存在してしまって、どうしたらいいのかわからない。そんなつもりじゃなかった迷惑が罵倒で返ってくる世界。痛いのは嫌いだけれど、物理的に殺されるよりも、言葉で殺されるほうがこわいです。最初から悪意のある人はほとんどいなくて、赤の他人への憎しみなどは都合の良い幻想に思えます。強い棘を突きつけられて、反省できる人間など見たことがないです。わたしもみんなも、自分を保つために必死です。保った先に何があるかもわからないまま、ただ生きています。今まで生きてきたこと、背負っているものがあって、わたしもあなたも大切なひとりであることを前提とした上で、愛がないなら傷つけないでください。少なくても罵倒や暴言では。そういうあからさまな、戦争みたいな攻撃的な言葉では。言葉はとても難しくて、人との会話はさらに難しい気がする。ひとりひとり違う生き方があって、同じ言葉でも全く同じ要素の組み合わせではないから、言葉の組み合わせが次々に積み重なって、文になって、少しずつ要素の交わり方が変わって、全然違う意味になるような、そんな感じ。もはや、ひとりひとり言語が違うようなそんな感じ。そこに言葉と言葉の自分だけの化学反応が起こって、ますますわからなくなる。だから、人と話す時に自分がとても非常識なことを言っている気がして、こわくなる。スナイパーみたいに相手が遠い場所から、わたしのことを見て嘲笑っているような気がして、こわくなる。自分が絶対的基準ではないこと、気づきながら会話をしていかないければ、といつでも緊張しながら会話をする。沈黙とか、いますぐ答えを出さなければいけなければならない感じが、わたしに迫ってくる会話という概念です。完全に共通しているわけではない言葉の列とスピードで、その空白の曖昧さを楽しめない。誰が悪いとかではなくて、わたしの今まで生きてきた認識の違いとして、もちろん会話が楽しい時もあるけれど、総体的に言うとあまり得意ではないような気がします。だから、相手に伝える方法がそれだけじゃなくてよかった。日本語、フランス語、映画、英語、詩、音楽、中国語、小説、手話、みたいに(なんか今の表現よく考えたらちょっと変だけど)わたしにとって映画や詩などの表現媒体も会話手段のひとつで、だから、わたしは映画や詩や音楽を作ろうとするのだと思う。毎日好きな色とか好きな食べ物が違うなんてことがあるくらいだから、理由も毎日変わるし、全然それだけが理由ではきっとないけれど、大きなひとつとしてそう考えてみている。全部、わたしのものではない世界の中で、わたしの言葉だけがわたしのものです。わたしの音楽だけがわたしのものです。わたしの映画だけがわたしのものです。わたしにしかわからないわたしのこと、ふたりにしかわからないふたりのこと。わたしにもわからないわたしのことと、ふたりにもわからないふたりのことだから、誰にもわからないはずなのに、事実を知っただけで、真実を知った気になる。感情は想像力とかいろんなこと帳消しにするから、こわい。そして、戦争が始まる。共通言語が違っても同じでも、関係ないです。ほんとうのこと、伝えられるはず。綺麗事だなんて、誰が言った。議会とか、政治のはなし。感情が先走りして、言葉が制御できなくなるようなそんな空っぽな会話で、未来のこと、話さないでいてよ。


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