空は青く、わたしの瞳に映るよ。

空が綺麗だと平気で言える人はきっと、透明な傘を間違える人だ。勘なんていう言葉を自信ありげに話す人で、催眠術に簡単に引っかかる、たぶん素直な人だ。わたしは素直なんかじゃなし、こんな偏見を断言できるほどの人間でもない。わたしの言葉で誰かを否定しようなんてことは思っていなくて、この文体は信号のようなもの。単なる何かしらの視覚的な記号だと思っている。(わたしもそこに感情を乗せて一頻りに様々な強度で言い切るが、わたしは君だけの世界があることを知っている)一応手探りで生きているつもりで、おそるおそる言ってみたという感じだ。わたしの言葉はわたしだけの本当であって、君に対応するとは限らない。わたしの言葉はわたしだけの信仰。誰にも押し付けることなどできない、わたしからのわたしだけへの贈りもので。自分の発言に責任を持たないというわけでは全くなくただ、これはわたしの世界だ、ということだけは断言しておこうと思う。(この見解もわたしの世界の前提に付随しているだけのこと)

他人事の空が嫌いだ。わたしの心に追随してくれない空が。死にたい日に限って残酷なくらい晴れていることもあれば、楽しみにしていた日に限って土砂降りの雨が降っていたりする。わたしに対して謀反を起こしているくせに、次の日には何も知らない顔をして、わたしの心情に寄り添っているかのような態度を見せることもある。わたしがこんなにも空に対して、感情なんてないということを理解しているはずなのに、裏切りのようなものを感じているのは、どこか空に神様のような、孤高な有り様を見いだしているからなのかもしれない。空はひとつしかなくて、代わりなんていない。迷惑をかけても結局は愛されるという事実が、中途半端な水色に浮かんでいるようで羨ましかった。人間のマイナスな感情には顔色ひとつ変えず、決して核心を掴むことができないという高峰を飲み込んで、ただそこにあるという現象が触れられずに転がっている神妙さ。ただひとつ同じなのは、孤独であること。だから、いくら手を伸ばしても届かない。

小さい頃はすべてのものに自我がある気がしていて、わたしは空を信じていたんだ。いつでも空と抱きしめ合っていて、お互いに通じ合える気さえしていた。すべてを包む大福の皮のような、やわらかな輪郭が好きで。わたしを守っている膜はやさしい。やさしいから、やさしさを味方だと履き違えていた。旅行の前にはてるてる坊主なんかを作って、祈った。祈って、願いは叶ったり、叶わなかったり。信じているから、期待しているから、叶わなかった時に裏切られたような気がするのだと思う。願えば願うほど、叶うという現象は遠ざかるような気がして、楽しみにすることを最小限にする努力、それが必要だった。願う、を消すために、楽しみを削る。ひとりで勝手に傷ついているというのが、なんだかくすぐったくて嫌いだった。高密度の期待のあとの落胆が怖い。それを好きな人の中に見るのはもっと怖い。旅行なんかにいけば、事故だとか、事件だとか、常に最悪な状況を想像せずにはいられない。想像して、落とされた時の衝撃を幾らか和らげようとしている。明け透けな自衛が働いている。わたしの母はそんなことは考えないような素直な人で、旅行をするとなると一番楽しみにしているのは母だった。自分がどうにかなるよりもそのような、わたしの好きな純粋な人間の楽しみの感情が高揚している時に、いきなり崩れるのがとても見ていられないのだ。裏切られた時の第三者の、可哀想という視点。裏切られた時の当事者の、時間が、場所が、気分が少しでも違えばこんなことにはならなかったという後悔。すべてがわたしの外側にあって、それらがわたしをそのインプレッションの渦の中に押さえつける。そうなると、もうどうすればいいかわからないのだ。運命なんていう言葉で、淡々と片付けてしまいたくなる。負のエネルギーが浮遊して、記憶に焦げつく。たぶん、わたしは臆病なのだ。受け入れることができないのだ。焦げついた記憶を洗い落として、新しいものに変換する自信がない。だけど、母は全ての感情に対して素直だった。どうなったとしてもその感情を全身で噛み締めることができる。すべてを受け入れる覚悟が、いつでも彼女の生の前提にあるのだ。

もしも、わたしが墜落事故に巻き込まれても、きっと空は綺麗だ。どこかで人が苦しみ死んでも、どこかで人が愛のないせっくすをしていても、結局、空は綺麗だ。気持ちの沈んだわたしが青い空を見れば、空への愛憎をも忘れて、明日へのロケットに希望なんていうものを乗せたりする。空はなぜ青いか。わたしは今まで知らなかった。太陽の光は7色が混ざり合った白に近い色をしていて、それを白色光というらしい。その7色の光はどれも大気中の分子に当たると散乱し、あたり一面に広がる。この中で青い光が最も散乱しやすいのだ。だから空は青く見える。わたしたちの目に青く映る。空を綺麗と言いながら、今まで知ろうとしなかった。知っていたつもりだった。そして、空についてのこの認知は決して、無駄なことではないが、結局は、海の水をバケツ一杯ほど汲んだだけのようなことにすぎない。わたしたちは一体、何を、誰を、知っているのか。わたしはわたしを知っているか。わたしは知らないわたしを傷つけ、わたしは知らない誰かを傷つける。わたしは自分の透明な傘を、他の透明な傘の中から見つけ出すことが、本当にできるのだろうか。

空は綺麗か、海は怖いか、あの芸能人は性悪か、殺人者は死刑か、あの映画は駄作か、好きな人は正しいか、あの人は素直か。

わたしは空を綺麗と言えるほど、空を知らない。

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