わたしのためだけの手作りクッキーをください。

どうしよう どうしよう どうしよう、と3回叫んで
身体中の凹凸を平に削って
私の現し身の内側、何もかも吐き出して
裸足で高速道路を走りたい
ふと、ふと、ふと思う。
生まれて初めて人に、お前なんか死ねばいいと言われた。わたしの生きている世界が嫌ならお前が死ねよ、と思った。共存できない。妥協点が見つからない。世界平和は夢物語で、ベクトルには、どちらが優れているかなんてない。だけど、わたしもっと平和に生きたい。そう思って、誰も否定しなかったけれど、わたしのそれはただの偽善だったみたい。最初から結局分かり合えないことに気づいていたから、痛みを感じるのが嫌で、甘噛みしていた。程よい痛みはむしろ快感になり得る。本気のふりして、本気じゃなかった。「肯定」なんて綺麗売りして、いつの間にか作業になっていた。今のご時世、熱血教師はいつの間にか大人しくなるよね。いつか本当の目的を忘れて栄進なんてものに取り憑かれるよ。人の目が気になって好きな服も着れない。世の中の型にわたしが抜かれるのよ。そんなことは知っていた。知っていて、自分はちがうと思っていたけれども。そのちがうも空っぽの、ただの言葉になった。最初は本気で願っていたけれど、繰り返すほどに中身がなくなっていった。生きるたびに軽くなっていく。わたしと君の間、使いすぎて効力を失った言葉みたいに。「肯定」の形骸化。心がすこし疲れた時、これ以上エネルギーを取られるのが嫌で、いつの間にかわたし、世の中に取り込まれていた。わたしが世の中から切り取った型に、妥協することのできる痛みの成分を流し込んで、定式化している。量産しているだけなのだ。はなからわたしを疑っていた。わたしを疑っていたけれど、わたしが犯人でもわたしを捕まえようとは思わなかった。いつか、慣れは危険だと誰かが言った。だけど、生きるって手を抜くことだった。きっと手の抜き方のうまい人が、上手に生きられる世界だとみんな、なんとなく気づいている。

平和ってきっと平だから、決められた定規のうえ、凸凹な背丈の世界は平和じゃない。けれど、その凸凹を削ってまでの平も平和じゃない。自分を殺してまで手に入れる平は平和じゃない。平和、平和、平和。受け入れることが偽善なんて呼ばれてしまうから、誰かが悪党にならなきゃいけないのだな。きっとそんな悪党は偽悪だから最後、映画みたいに世界をどんでん返しして平和にしてくれるかもしれない。やっぱり夢物語じゃないか。夢物語でいいのかもな。ずっと辿り着かないから、ずっと追い求めるのかもな。全て間違いで全て正しい、なんて綺麗なことを言ってみる。こんな言葉を心の底から言える人にわたしはなりたかった。心臓と脳が一致している人にわたしはなりたかった。こんな文章を書いている間も、世界のどこかでは餓死している人たちがいて、爆弾の瓦礫に埋まっている人たちがいる。誰かが死んだ爆風が雲を動かし、ここに雨を降らして、その雨で育った野菜をわたしたちは食べて、生きているのかもしれない。いつか原子爆弾とやらが落ちた日を忘れてわたしは、わたしだけの不幸に溺れている。悲劇のヒロインになりたがっている。でも、あなたに悲劇のヒロインみたいと笑われた時、わたしこれからどうやって悲しめばよいのかただ、わからなくなった。あなたが作った型にわたしが抜かれて。何を言っても、あなたが切り抜いたある形状の部屋のなか、わたしの声がひとつ、木霊するだけで。窓も閉め切った部屋からはもう何も届かない。わたしがわたしの中で消えてゆく。死にたい。死にたいという言葉以外に、この憂鬱、虚無、絶望をあらわせる最上級の言葉が見つからないだけで、ほんとうに死にたいなんてたぶん思ってない。

嫌いだった人に優しくされた。でもそれは代わりがいるからの余裕で。絶対にわたしじゃなくてもいいのなら、最初から優しくなんてしてほしくなかった。好きな人以外への優しさってのはたぶん、全て自分のためにあるんだ。自分が死にたくならないためにあるんだ。わたしはわたしに優しくするなと言って、誰かに死ねと言っているのかもしれない。好きじゃないから尚更そうかもしれない。みんなにいい顔をしていると言われることがあるが、いい顔もその顔の完成につながる工程があからさまになれば、むしろ悪い顔だ。ふと、全人類の愛がわたしに向けられるわけではないことを日常に諭される瞬間があって、どんな顔をして生きてゆけばよいのかわからなくなる。今日も誰かが誰かを好きだという。誰かが好きだということは、わたしのことはそれ以上に、または全く、好きではないということだ。勝手に生きてくださいということだ。知り合いが誰かを恋愛的な意味に限らず好きになったとき、わたしが好きでもないのにモヤモヤしていたのは、好きという選択の背景に、選ばれなかったわたしがいるからだ。でも、選ばれなかったからといって、どうしようもない。こんなことはただ思うしかなくて。個性、個性と言いながら、結局自分がいちばん信じてない。わたしだって、何かを好きだと言ったりして、常にどこかで選択している。全部しょうがない。平和もしょうがない。しょうがないが諦めではない。こんなことを思うならわたしは、わたしじゃなければだめな人にいちばん優しくするべきだ。わたしじゃなければだめな人なんて、ほんとうはほとんど、または全くいないのだと思う。今わたしが食べているクッキーもわたしのためだけに作られたのではない。このクッキーはクッキーを食べる人のために作られた。わたしはクッキーを食べる人という巨大なモーメントの中の名前のない一員でしかない。このクッキーはすべて工場で機械的に作られている。型抜きとかそんな工程も全部、無機質なもので。クッキー工場を爆破しても何も変わらない。でも、衝動の爆発のなかに美しさがあるとすれば、たぶんそれだけでよかった。

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