みんながエモいって言ってたから、わたしはあの映画が嫌い。

みんなが好きなものなんて、つまんないと思った。2択だったらいつでも、少数派になりたかった。‘その他’があれば、喜んで行った。一言で言えば、捻くれてんだな。それでもわたしは捻くれ者って分別されたくもない。
分別されるのが嫌いだ。入荷される野菜みたいだ。貼られる名前に異議を申し立てることもできないまま、店頭に並べられるなんて。「そんな人間じゃない」なんて言うわたしの思い込みなのかな。わたしはよく鏡で自分を見ているのに。自意識過剰ってよくママに言われる。わたしが打っ千切りでわたしを知っているはずだった。他の誰かがわたしを一概に説明することなんてできない。だからわたしはどの項目にも当てはまらない。でもよくよく考えてみれば、周りの人の方がわたしを知っているのかもしれない。わたしは鏡がないと自分を見ることができないのだ。他の人がわたしに向ける鏡を見て、わたしは社会の中の自分を知る。他人の目が怖くて、わたしはわたしを伝えることができない。自分のことを伝えるとなると人は不器用になる。だから呼称が与えられるのか。伝えられない自分を補うために。曖昧なのか、白黒ついているのかは人それぞれで、捉え方は自己責任。ある程度の区別だ。呼称を与えられるのは、分別するためではなく、区別するためなのか。そんなの綺麗事だろう。別れた時点で比べる事象が発生してしまうのだから。平和ではない。分別も区別も同じだ。でも別れた先で、与えられた名前を自分に言い聞かせていれば、本当にそれになることもできたから、何でもないわたしには案外悪くもないかもしれない。
だけど本物はわたしだけだ。独我論っぽいことを言った。昔から人の顔を見つめすぎると誰だかわからなくなることがよくある。親の顔もそうだ。ゲシュタルト崩壊。どちらかというと、文字より人の顔でしてた。人の顔でゲシュタルト崩壊すると、なぜか宇宙でわたしだけが本物のような気がした。一人ぼっちな気がした。知ってる人なんて誰一人といなくて、みんなある程度同じ間隔でまばたきしていて気持ち悪いと思った。人形みたいだ。当時、なんとなく神様はいると思っていたし、お母さんがパンケーキでも作っている間に神様が暇つぶしの気まぐれで作った創造物、それが人間なのだと思った。所詮、その程度だと思った。偶然なんて言葉じゃ足りないくらいのただの偶然。人はそれを奇跡と呼ぶが、そうでもないと思う。きっと反射で見えるところと見えないところがあって、たまたま見えるところが綺麗に思えるだけだ。ぼやけた虚像が美しいだけだ。見えすぎたらきっと萎えてしまう。そういえば、最近のカメラは見えすぎてちょっと嫌だ。見えすぎるわりに、空間に空気が敷き詰まってない感じがして嫌だ。それっぽいことを言っているだけで、形も色も空っぽに見える。今の世の中みたいだ。人の心が解像度に追いついていないんだ。すごく話が脱線した(元から脱線している)。人の顔を見つめていると、なんで神様は人間をこんな見た目にしたのかすごく気になった。神様もこんな見た目なのかな。というか神様はどこから生まれたのかな。でも神様はどちらかというと、固体より液体、液体より気体な気がする。そうであって欲しいな。わたしは都合がいいから、神様でゲシュタルト崩壊したくないのだ。見れば見るほど自分は何を見ているのだろうという気持ちになる。なんでここに目があって、なんでここに口があるのか。なんで目はこんな形なのか。なんで口はこんな色なのか。少し引っ張ったらすぐほどけるような絡まりどうしが、ほどけることなくまたいくつも絡まっていくような感覚だ。こんな変な造形を目の当たりにして平然と生きている自分が可笑しかった。こんな造形で優劣をつけてるなんてくだらないと思った。最初からおかしいじゃないか。わたしたちは「あたりまえ」に騙されている。足が3本あってもいいじゃないか。鼻と唇が繋がっていてもいいじゃないか。もしも、目の上に鼻があっても、みんながそうならきっとなんの違和感もなく暮らすんだろう。それが「あたりまえ」になって、基準となり、その中で優劣が生まれる。そして、目の下に鼻がある人間は分別されて見世物にされるんだ。そう、みんなマジョリティーが好きだ。集団で人を見下すのが大好きだ。だけれど、自分が一番正しいと思っているのに、自分だけが本物だということを忘れている。いくら大きいコミュニティに属したつもりでいても、わたしはわたしの中から出ていくことはできないし、結局は一人だ。自分の精神以外は全てまやかしでしかない。そして、所詮誰かの鏡なのだ。誰かから自分へ向けられた鏡は社会の中での自分の立場しか映し出してくれない。誰かの鏡に映る自分なんて虚像だ。毛穴まで見えすぎてしまって全然映えてない。可愛くない。自分の手鏡の中の自分が一番可愛いのだ。加工してるって知ってた。それでもわたしの手鏡はわたしだけの哲学と思想でできているので。それを否定されるなら、マイノリティーでもよかった。それか‘その他’でもいい。むしろその方が特別感があって好きだ。性質的に特別というわけではなくて、流されない自分に特別を感じているのだ。
典型的な人間にはなりたくなかった。神様に操られている気がしてしまうからだ。昔、神様に操られている気がして、悔しくなった時期があった。まだ自分が死ぬと知らなかった年頃だ。歩いているとき、右に曲がろうと思って右に曲がったら、神様の思う壺だと思って、自分の行こうと思った方向とは反対へ歩こうと思った。つまり1番目の意思は捨てて2番目の意思に従えば、神様を欺けると考えたのだ。でも、よく考えてみると、そもそもわたしの意思そのものが全て操られているのではないかということに気づいた。そうしたら、何も考えず、無意識に歩くしかない。でも無意識に歩くなんて無理だし、無意識の世界まで神様に支配されているかもしれないと思い、身震いした。何か行動する度に、わたしは操られているかもしれないと思うのだ。しかし先ほど言ったように現在、わたしの中で神様は人のような固体ではない。空気と言っても化学的な何かはそれほど気にならず、個人的に習慣とか性質とか思想を指す割合が大きい。神様に操られているというのは、人間の性のことだ。本能に従ってしまうということだ。マジョリティーはこれだと思ってしまうから、わたしは嫌なのだ。人間っぽいと操られているような気がするのだ。神様が作ったただの動物にはなりたくない、なんて烏滸がましいこと考えてしまう。というか、そもそも神様の意味を調べたところ、常人には成し得ないようなすぐれた力を有し、他から神聖視される人、とある。人であるから、この文の中の神様とは定義づけられたこの世界の基準の神様とは違うし、崇めるものではない。わたしの言う神様とは、人間が逆らい切ることのできない強大な力のことだ。誰も到底想像のつかない、ブラックホールのような、未知、無限、永遠。そういう類のものだ。
そして、別にこういうこと考えてるのわたしだけだと思ってない。わたしも神様の創造物だから、こうして神様の掌で踊らされている。別にこういうこと考えてるのわたしだけだと思ってない、なんて分別したい人のセリフだ。やはり手玉に取られている。でもみんなと同じ感想なんてそれこそ神様に操られている気がする。確かに物事は見つめすぎると崩壊してしまうが、映画の感想くらい一人で静かに考える時間があってもいいと思う。自分だけの眼福で。誰かに言うためでもなく。

大切にしたいのはきっと、そんな時間である。


わたしは人間らしく生きたくない。こんな世の中で人間らしく生きたら、それこそ人間じゃなくなってしまう気がする。
ああ、コーヒーが冷めてしまった。
こんな文章を書いてしまって、結局わたしは分別したい人間だと思う。

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