君に好きな映画を教えたい

「恋愛とはいかなるものか、私はよく知らない。そのいかなるものであるかを、一生の文学に探し続けているようなものなのだから」
恋愛論の冒頭で坂口安吾がそう言っていた。近現代日本文学を代表する文人が一生をかけて探し続けたものを、今ここで言葉にしようとしている私は、一体何者なのだろう。
坂口安吾を先生と呼ぶ彼が、私に、なぜあの子といるのかを問い、私は「わからない」と言った。彼は「そのわからないに意味が詰まっている気がして羨ましい」と言った。
言葉は曖昧な地平線のようなものだ。明け透けに見えて、時折同じ世界に溶けて合っているようにも見える。言葉は見えるか。自分にしか見えないように見える。見えているものがめいめいで違うので、言葉もめいめいで違う。五感が備わる人間にとって、結局は今見えているものが全てだ。それが映画になる前に、その瞬間もその瞬間に過去になる。そして、誰かに見られて、その映画を見た、という誰かの過去になる。「今見えている」ものが次々と「今見えていた」ものになる。この瞬間、この刹那。今見えているから、今見えているものに対してはなんとなく確実にあるような気がしている。しかし、そうでないものはわからない。わかろうとしない。脳が死んでいる。死んだまま生きている。流しっぱなしの「わからない」が溢れている。見えているものや見えている言葉が違うように、「わからない」もめいめいで違う。自分だけの「わからない」だから、言葉にする理由がある。理由のない意味がある。この瞬間、私がこの言葉を口にしている時、私の横では、水槽の中の金魚がぱくぱくと口を開けている。ただそれだけのこと、されどそのようなことだ。私にしか見えていない「今」を伝える。言葉にしなければわからなかった。言葉にしたから脳で見せた。想像を再生した。
しかし、先ほど述べたように、見えているものがめいめいで違うので、言葉もめいめいで違う。私の悲しいはあの子の悲しいとは違うし、私の寂しいは彼の寂しいとは違う。そして言葉は、宇宙は、常に矛盾を孕んでいる。二律背反の世界。表裏一体の世界。人間も、そう。たかが人間、されど人間、たかが人間なのだ。抱きしめたら壊れる、なんてことが余裕で起きる世界。踏み出した右足を左足で踏んづけて、私はどうしたらいいのかわからなくなる。好き、嫌い、好き、嫌い、なんて花びらを引きちぎる行為が趣深いと思える日もあれば、残酷に思える日もある。白黒つけることができない。他の色がいい。何を言っても何をしても、正確であり、間違いだから、私は今から私にしか見えない色を言葉にすることができる。

こんな堂々巡りの宇宙の中、見えないキラキラ。太陽に照らされなくても輝いているもの。それがきっと恋とか愛とかいうもので。これは青い地球の呪いだから、解けることはない。
「恋と愛」は「LOVE and LOVE」。国によって違えば、人によって違う。私は日本人。自分で選んだわけでもなく、目が覚めたら、ただ日本人だったのだ。だから、恋と愛は別物だと、小さい頃から信じていた。
恋はどちらかといえば不純だ。性の発展のようなものであって、決して神聖ではない。生きてるだけで、二酸化炭素を出すのに、恋なんていう厄介なものを消費して、なおさら地球を危険に晒している。それでも許されるのは、恋が燃え尽きても、最後に愛が残るからだ。
愛は救済。信仰。恋は独りぼっちだが、愛は私と愛でふたりだ。だからどこまでも堕ちていける。孤独じゃないから、このために死んでも構わない。分かり合えるのは、半径Xの愛の円。ストーブみたいに温かさの感じられる距離の中だけで私たちはお互いに分かり合うことができる。だから戦争が起きる。全人類にひとり1秒ペースで会うとしても221年かかる。存在さえ知らない人が随分と多い。存在を知らなければ、考えることもないので、どうなっても構わない、違う次元で生きている。愛はふたりだけのものだ。ふたりだけの秘密だ。ふたりだけの次元だ。一心同体。だから「愛」は永遠になり得る。それで居て「死」に似ている。生を受けて、生命は有限になり、死を受けて私は永遠になる。愛と性の等価交換をしたい。死をもって、性を脱ぐことができる。愛は私を横顔から見るのではなく、向かい合って、目を見続けてくれる。愛があれば、たかが人間、されど人間、たかが人間、されど人間だ。矛盾だらけで何を言っているのかわからなくなる。何かひとつ、たったひとつだけ今の私に確実に言えることがあるのなら、こう言おう。
私にとっての愛は、自分の本当に好きな映画を教えることができるということだ。

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