自分の遺影くらい好きにさせてくれよ。

誰かに迷惑をかけなければ自由にしても良い、なんていうのは都合の良い話だ。まるで自分が誰にも迷惑をかけていないみたいな言い方に聞こえる。
生きてるだけで、ゴミが出るのに。
ほんとに誰にも迷惑かけたくなければ死ねばいい。

そうだ、もしわたしが死んでもお葬式はしてほしくない。どうせ冷たくなったわたしの体の上、祭壇の真ん中、偽物の太陽と死なない花の間で、主役になれなかった人生に最後の情けを掛けるみたいに、今日だけはわたしのための式日だと言って、業者が用意した安っぽい写真の中、不細工なわたしがこちらを見て微笑んでいる。なんの笑みだったかなんてきっと誰も知らないまま、みんなの目にはすべてが有終の美ってやつに見えて、嘲笑だったかもしれない笑みにさえ涙するんだ。

ほんとに都合の良い話ね。

有終の美を飾る、なんていう言葉は嫌いだ。終わり良ければすべて良し、みたいな感じだ。ほんとは違う意味だったのかもしれないけれど、人間は、わたしは、都合が良いから、言葉の意味さえ変えてしまう。よくわからないまま、言葉を濫用している。
そういえば、卒業が近づくと、教師たちはよくこの言葉をわたしたちに言い聞かせた。でもわたしはもう手遅れだと思っていた。わたしには最後までやり遂げることのできる何かがなかった。

だから、もう手遅れだと思った。

みんな卒業式は泣かないと言っていた。
わたしも泣かないと言ったけれど、卒業が自分に訪れるとは信じていなかった。卒業は少し嬉しい。変化に期待していた。でも人は何かに期待している時に死ぬものだと思っていた。予想できない自分像はすごく怖くて、それが死の予兆だと思った。

でも結局のところ、卒業式の日はやってきた。
わたしは生きていたし、死んでいなかった。何かの変わり目の時、想像できない自分はわたしにとって死に値するが、わたしは平然とその日に突っ立ていた。想像できていないままのわたしで生きられていた。全てが呆気なかった。こんなもんかと思った。それでも最後には曖昧なまま、納得した。3回目の卒業式でも何もわからなかった。なんとなく、みんなと共鳴したつもりでいた。

そして、4回目の卒業式も時の流れと共に普通にやってきた。
わたしは担任が苦手だった。ほとんど関わりがなかったが、自分の考えを押し付けてきて嫌だと思っていた。それにお互いに興味がなかった。というより、わたしは成績が悪かったから見捨てられていたのかもしれない。わたしの友人はよく担任を悪く言っていた。わたしもそれに本気で便乗していた。

でも、卒業式の後、担任が泣いた。

それを見たクラスメイトも泣いた。

担任を悪く言っていた友人も泣いた。


わたしは、笑っていた。

完全に蚊帳の外。みんながわたし以外で共鳴している。今までの嫌だったこと、全部なかったような顔をして。もうこのクラスには誰も担任を悪く言う人はいないのかもしれない。みんな最後は美しく終わらせたいのか、最後だから美しく見えてしまうのか。
終わりは、死は、神聖に見えるものだ。頼まれてもいないのに、全てを肯定して、尊いものに変えてしまう。若くして死んだあの芸能人も、自殺した文豪も、なぜか死んだことで尚更崇められている。死は故人の人生を神話に変える。悪く言っていたくせに、死んだら、みんな態度を変える。
都合がいい。都合がいい。どうでも良くなった。逆転ホームランというか、クイズ番組でよく見る、最後の問題で今までの正解が全部無駄になるような破格のポイントが獲得できるやつみたいだ。何かにこじつけて、無理矢理有終の美を作った感じがした。なんか嫌だな。気持ち悪い、となって面白くなってしまった。

それでも最後にはわたしが悪いのだと思った。ただ、わたしが優しくないのだと思った。本当に有終の美だったのかもしれない。ただわたしが途中で脱落していただけで。そんな自分に泣きそうになった。みんなが尊き涙を流していたのに、わたしの目の縁にたまる液体の成分は自己嫌悪だった。



どこかの詩人が言っていた。
人間なんて結局分かち合えないもので、分かち合っているという美しい誤解のもと、ひとつの言葉から何かが立ち上がるのかもしれない、と。

ああ、すごく素敵だ。
そんなことが言える人にわたしはなりたい。
そんなことが思える優しい人にわたしはなりたい。
松の木みたいな人だ。
きっとこの人は人のことを浅はかだなんて思ったことないんだろう。人の愛すべきところを知り尽くしている。そして、素で愛されることができる。自分にも他人にも純粋に期待することのできる心の綺麗な人。
美しい誤解、なんて、自分と他人との間にこんなにも甘美な接着剤がある。

羨ましい。羨ましい。妬んでいる。
わたしと他人との間にあるのは透明が白濁しただけの色のない色眼鏡みたいな、なんか、そんな感じ。焦点距離を口実に、距離をとっている。わたしは他人にとって、こだわりの無い体裁で自分が自分以上であるための道具でしかないのかもしれないと、期待以下であることを期待している。浅はかな自分に気づかれたくないから。期待以下に落胆したふりをして、安心している。比較してはいけないなんて、綺麗なこと言って、わたしは違うと比較している。見えなくしたのは自分なのに、被害者面して、悲劇のヒロインになりたがっているだけなんだ。ほんとは何もわかっていない。色さえつけられていない。好きな映画も教えたくない。傷つくのが怖くて、気まぐれの可能性を常に探している。

ただ、誰かの気まぐれに付き合わされているだけなのかもしれない。

あの文豪も気まぐれで死んだのかもしれない。

だから最後の感情は、案外綺麗なものだったかもしれない。
気まぐれの人生だったから、最後まで気まぐれだったのかもしれない。偶々、最後だけ気まぐれだったのかもしれない。


有終の美なんて誰かに判断されるような、かわいそうな人生送ってない。有終の美なんていう言葉、おまけ以下でしかない。

泣かないで欲しい。
次の日の朝、ごはんが喉を通るくらいの悲しみなら。
「かわいそう」なんて、どこかの国の誰かが死んだニュースを見て、呟くレベルの悲しみなら。

わたしは絶対にかわいそうじゃない。


まだ、わたしにはわたしが死んだことに気づく人がいる。それが必ずしも良いことだとは限らないと思っている。
人は死んだら、生まれた日と同じように、死んだ日に目印をつける。きっとわたしもそう。
一方的に流れるだけの時間に、記念日をつくる行為はあまり好きではない。矛盾している。なぜか毎年やってくる。そして、わたしが死んだことに気づいて、深刻な顔をする。いつも忘れているくらいなら思い出さなくてもいい。

お葬式はしなくていい。
でももしもするなら、遺影くらいは好きにさせてほしい。わたしを覚えている最後の日になるだろうから、今日くらいはわたしが認めたわたしで、誰かの頭の中で純粋に笑っていたい。


終わりの話をしていた。

それでもわたしは、まだ生きている。


帰り道、運転しながら、どうやって死のうか考えていた。

空が綺麗だった。

西日が綺麗だった。

綺麗だという気持ちのまま、死にたかった。

結局、わたしも最後くらいは綺麗に終わりたいのだ。



綺麗な夕焼けの下、ラブホテルが建っていた。

綺麗な西日がラブホテルを照らしていて、きっと結局そんなもんなんだと思った。

わたしもみんなもそんなもんなんだと思った。



空が綺麗で、信号が青に変わったことに気づけなかった。

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