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【Vシネマ感想】行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー 夢の超トッキュウ7号

 TTYO配信で「行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー 夢の超トッキュウ7号」を見ました。

 7人、7色、虹の色と同じ数。
 7号氏、若干の面白おじさん感はあるが、トッキュウジャーの居なくなったレインボーラインを明と共に守ってきたのであろう。なにしろ年季の入り方が違う。昭和のヒーローのように高いところで名乗りを挙げ、格好良く飛び降りてくるオールドスタイルがシブい。一度車掌の座を得たいい年の大人だからといって、別の夢を叶えられないなどということは無い。

眼鏡とコンタクト

 本作の舞台は2025年と2017年を行き来する。冒頭、2025年のオープンカフェに集まるのは20歳になったかつてのトッキュウジャー達。トカッチはトレードマークの眼鏡をはずしてコンタクトに変え、ミオは来たる公務員試験の難しさに暗澹としている。成長するにしたがってイマジネーションを失ってしまった彼らは、もはやレインボーラインを目視することもできない。5人の中で一番イマジネーションを有していた、あのライトですらだ。2017年で烈車に乗り込む過去の自分たちの姿は、大人の彼らにはまるで宙に消えてしまったように映る。

 子ども時代の己と交流しながら、大人になったトッキュウジャーたちはそれぞれのイマジネーションを取り戻していく。
 例えば空腹の大人カグラは、子どもカグラが差し出した空想のシュークリームをそっと受け取る。大人ミオ曰く、子どもの頃よくやっていた遊びなのだそうだ。イマジネーション豊かな子ども時代の彼女らには、想像上のシュークリームだって極上のスイーツになる。
 シュークリームを受け取る仕草をした大人カグラは、両手をお皿にして「シュークリーム、シュークリーム、シュークリーム!」と唱える。そして大人ミオとふたり、手のひらを覗き込んでじんわりとした微笑を浮かべる。カメラが映しているのは大人二人の表情だけで、手のひらは一切写らない。まるで魔法をかけるようなSEは流れるが、実際のところ無からシュークリームを生み出すことなどできはしない。それでも、手のひらにはおいしそうなシュークリームが確かに「ある」のだろう。カメラの客観に映してしまえばすぐに消えてなくなってしまうような、儚くも他愛のないお遊び。だが、そこにいる4人にとっては、イマジネーションが生み出した確かな真実である。

 2017年の海岸でコンタクトを落としてしまった大人トカッチは、大小のヒカリと子どもトカッチを付き合わせて必死にそれを探す。そのさなか、なんで眼鏡をやめてコンタクトにしたのかと子どもの自分に問われ、大人トカッチはしどろもどろに弁明する。
「これは、皆が眼鏡ダサい……だ、ダサいとかじゃなくて、ちょっと似合ってないかな~って、いや僕的には気に入ってた……もう、子どもには分かんないんだよぉ」
 そんな大人トカッチに、子どもトカッチはそっとスペアの眼鏡を差し出す。戸惑いながら眼鏡を手に取る大人トカッチ。「いいの?」「うん。だから、明くんの居るとこ教えて?」
 子どもヒカリと子どもトカッチは、あくまでもヘイ大公のもとに向かい、自分たちで明を救出すると主張する。
「俺たちは、俺たちが正しいと思ったことをします。それが大人のあなたにとっては、間違っている事でも」
「大人には分かんないんだよ」
 過去の自分たちの揺るがぬ思いを受け、大人の二人は思わず笑みをこぼす。8年前に自分たちが同じセリフを口にしたことを思い出していたのかもしれない。

 眼鏡もコンタクトレンズも本来はただ視力を矯正するための器具であるが、装着する場所が顔面であるがゆえに、ことさら周囲の視線にさらされ、まるで顔の一部であるかのように美的評価を下されるパーツでもある。自分ではお気に入りだった眼鏡でも、大人になれば周囲の空気や流行り廃りが気になってしまう瞬間が出てくる。
 大人になったトカッチも、眼鏡をやめてコンタクトレンズを装着する道を選んだ。確かに眼鏡からコンタクトレンズに替える行為には、大人の仲間入りというイメージがある。扱いには注意が必要だし、消耗品だからお金もかかる。その代わり、「ダサい」眼鏡から卒業して、オシャレで快適な毎日を手に入れることができる。
 冒頭でも嬉しそうにミオたちへ素顔をお披露目しているし、コンタクト生活もそこそこ楽しんでいる様子のトカッチである。目玉に直接レンズを張り付けるのだから、一番初めに自分で装着する時には随分勇気もいるだろうし、うまくできれば誇らしくもなっただろう。そのまま町に出れば、曇ったりズレたりしないクリアな視界は随分快適だったはずだ。
 本当に、眼鏡というものには不便が付きまとう。すぐに汚れるし、ケースはかさばる。ちょっとでもズレれば途端に視界の一部がぼやけ、眼前の世界は曖昧なものとなってしまう。変身して戦っている最中も、トカッチ=トッキュウ2号はしばしばずり下がる眼鏡=顔面を走るレールを押し上げるような仕草をする。世の中にはスポーツ用の眼鏡もあるが、彼がかけているのはごく一般的な眼鏡だ。激しく戦闘を行えば、あっという間にズレたり落ちたりしてしまう。
 そんな不便さに嫌気がさし、納得ずくで眼鏡を卒業するのであれば、それは個人の自由であるから一向にかまわない。だが、トカッチの奥歯にものの挟まったような口ぶりは、子どもの自分相手にオシャレ云々を語りたくない気恥ずかしさにプラスして、なんとなく彼自身がしっくりきていないような心境を感じさせる。ダサいと思われようが、不便だろうが、トカッチは自分の眼鏡を「気に入ってた」のだ。無理にコンタクトデビューをはしゃいでみても、その小さな違和感は簡単に忘れられるものではない。
「大人には分かんない」と断じながら、子どもヒカリと子どもトカッチは「俺たちが正しいと思ったこと」をすると宣言する。周囲に流されるのではなく、ただ自分の信じたことをなす。大人ヒカリからの忠告を受け入れない頑なさは文字通り子どもらしいが、自分のはじき出した正しさを信じて行動することは、自分のイマジネーションを信じるための大切な心構えでもある。
 子どもトカッチに渡された眼鏡を、大人トカッチはその後のシーンでずっとかけ続けている。2025年に戻り、大人+子どもペアでクローズと戦闘を繰り広げている際にも、二人で転がって移動した後、子ども2号に「眼鏡眼鏡」とレールの位置を直され、「どうも」とはにかんだように礼を言っていた。まるで、しっかり自分で世界を見つめて選んでいけるように、とバトンを渡されているようにも見える。一度コンタクトの便利さを知ったトカッチが手のひらを反すように眼鏡派に戻るとも思えないが、選択肢の一つとして気に入りの眼鏡を楽しみ、恥じることなくかけて出かけていけるようになればいいなあとも思う。イマジネーションを働かせれば、ぼやけた視界も驚きとワクワクに満ちた世界になる。


老いと成長

 大人になるとは、すなわち歳を重ねるということである。
 今作でヘイ大公とともに登場し、トッキュウジャーの前に立ちはだかるシャドー怪人がタンクトップシャドーである。ライトセイバーのごとき誘導棒がやけに似合う保線員を操るような形で登場した彼は、シャドーライン時代からザラム=明と共にあり続けた無二の鎧なのだという。確かにずっと着ていたなあ、ランニングシャツもといタンクトップ……。
 タンクトップシャドーが持ち主である明の意志に反してまでヘイ大公側についたのは、他でもない明のためである。明がシャドーラインを抜け、レインボーラインに加わった時でさえ、文句ひとつ言わず粛々と従って来たタンクトップシャドーであるが、彼は知ってしまったのだ。シャドー怪人でなくなった明はやがて普通の人間と同じく年を取り、死んでいく。鎧として、また常に傍にいた半身のような存在として、タンクトップシャドーは明の命を守らねばならない。「このままではザラムは老いて死ぬ、それが許せなかった、だから!」
 ゆえにタンクトップシャドーはヘイ大公に従い、明の記憶を消して元のザラムへ戻そうとする。シャドー怪人は不滅で死ぬことがない。ヘイ大公はザラムを最強の戦士と目して部下にしようとしていたようだが(そのひと雨しか降らせられないけど大丈夫ですかね)、タンクトップシャドーにはそんなことなどどうでもよい。彼は彼のエゴのため、許せないことを許さないために行動する。
 トッキュウジャーの前にわざわざ姿を見せて「ザラムのことは忘れろ」「追うな」と告げたのは、持ち主の心境を汲んだせめてもの思いやりか。明と共にいたということは、6人の交流の様子も間近でつぶさに見てきたということだ(だから「お前たちの弱点もよく知ってる」)。明が人間らしく変わっていったように、タンクトップシャドーにもトッキュウジャーへの情のようなものが芽生えていたのかもしれない。
 明を老いさせたくない、死なせたくないと考えるタンクトップシャドーとは対照的に、子ども1号の台詞は清々しい希望に満ちている。大人になった自分を「すんげーカッコよくなってた」と評した子ども1号は、「大人になるのって、悪くない」とタンクトップシャドーに告げる。大人になればイマジネーションが消えてしまう。そうでなくても明日の卒業式が終われば、中学生になる自分は昴ヶ浜を去らねばならない。一度は子どもに戻ることを諦めた身だ。小学生として皆と時間を過ごせることのうれしさを、誰よりも噛みしめているはずのライトである。それでも、「俺は、明と一緒に、大きくなっていきたいんだ!」。たとえイマジネーションが消え、レインボーラインや明の姿が見えなくなってしまうとしても、子どもライトは前に進むことを選ぶ。明自身も成長することを望んでいると、彼は確信している。なぜならトッキュウジャーを「卒業」しても、彼らはずっと仲間だからだ。そして皆で交わした約束の通り、明は姿が見えないままでもライトたちをずっと守り続けていく。
 子どもが歳を重ねて大人になることと、大人が歳を重ねて老いて行くことは、同じ時間の流れであっても同列には並べづらい。子どもはどんどんできることを増やしながら成長していくが、大人は次第に衰え、死に向かっていく。ザラムの事を思うあまり、なりふり構わず永遠の命を取り戻させようとしたタンクトップシャドーの痛切な思いは我々にもよく理解できる。
 だが、元気いっぱいに登場したトッキュウ7号の姿が我々に示すように、大人が歳を重ねていくことも悪いことばかりではない。生きていれば、夢がかなうチャンスも思わぬタイミングでひょっこりやってくるかもしれない。失ったイマジネーションだって取り戻すことができるのだ。何より、自分の見つけた大切な物を守って力強く年月を走り抜けることは、自分自身のことすらわからず幽霊のように生きながらえるよりもずっと楽しく、ワクワクできるはずだ。
 洗脳の解けかけた明を庇って、タンクトップシャドーはヘイ大公の凶刃に斃れる。記憶の混乱している明に「虹」を教え、さらに「お前の名前は」とかすれる声で繰り返しながらタンクトップシャドーは消える。タンクトップシャドーは一貫して持ち主の事を「ザラム」と呼称してきた。シャドー怪人として自分と共にあり続けてほしい、という願いが透けて見えるようだ。だが、最後の最後でタンクトップシャドーはその名を呼ばない。光の粒となったタンクトップシャドーが消えた後、その言葉尻を引き継ぐように子ども1号が「明」と呟く。どうしても口に出来なかった思いは、二人にしっかりと伝わっている。

 さて。戦いの終わった2017年では予定通り、明を交えた「トッキュウジャーの卒業式」が行われる。どちらかと言えば解散式に近いのだろうか。ライトたち5人は手作りの卒業証書を卒業生代表の明に授与し、明もそれを畏まって受け取る。式典の前にお作法のレクチャーがあったのかと思うと微笑ましい。
 自ら卒業式を言い出したくせに、ライトは「卒業してもトッキュウジャーなんだよ」と悪びれない。それなら何のためにとツッコみたくもなるが、思い出の昴ヶ浜を離れ、中学校という大人の世界へ一歩踏み出すにあたり、子ども時代の象徴である「トッキュウジャー」にひとつケジメをつけておきたいという彼なりの思い付きだったのだろう。
 一方の大人たちはグリッタの力により元の時代へ戻る。そもそも2017年に大人たちを招いたのもグリッタだったようだ。子どもトッキュウジャーたちだけでは、ヘイ大公に力負けしてしまう。ならば以前のように大人の身体を持った彼らを、と考えるのは自然な流れだ。イマジネーションが消えてしまっていたのは誤算だろうが……。
 闇に沈んだヘイ大公は子どもたちのイマジネーションが消えるのを待って2025年に再び復活するが、そこに走ってきたのは過去でイマジネーションを取り戻した大人達である。さらにイマジネーションのおかげで姿が見えるようになった6号・7号、過去からやってきた春休み中の子どもたちも交え、戦隊というかちょっとした軍勢が出来上がっている。ヘイ大公、策に溺れたな。大量のクローズで応戦するもトッキュウジャー達にはかなわず、2種類のキメ技を同時に食らって再び撃破されるヘイ大公。イマジネーションを取り戻したこちらにはもう怖いものなしだ。客演だってできるぞ!
 ところで客演と言えば、トッキュウジャーがゴーオンレッドに続いてブンブンジャーへ出演するとの話である。時系列を考えるとやっぱり2025年に入ってから、イマジネーションを取り戻した大人トッキュウジャー達が颯爽登場する感じになるのだろうか。気になるところだ。

 以下余談。
 子どもトッキュウジャーも大人トッキュウジャーも、アクションシーンがかわいくて格好良くて最高であることだなあ……。戦いもそうだが、子どもライトから借りた烈車で変身したままぶらぶらと跳ね回る大人1号のナチュラルな感じもずっと見ていたくなる。子どもライトと大人1号が手を繋いで歩いてくる2ショットときたら! 勘の鋭い自分(子ども)が自分(大人)の表情から余計なことを読み取らないように、という大人ライトの配慮かな、と思いつつ、でももしかしたら久々の変身が嬉しくてはしゃいでいるだけなのでは、などとも思ってしまう。いずれにせよ楽しそうで何より。
 2025年に戻り、仲間たちと再会した後でクローズと戦う6号もたまらない。体中に嬉しさを漲らせつつ、手すり柵を軽々飛び越えながらの、大人の余裕とワイルドさの同居した雰囲気が最高!
 オープニング曲に乗せた最後の戦闘シーンはちゃんと7号が「ご注意」するお約束もはさみつつ、それぞれの大人+子どもコンビにしっかり見せ場が用意されていてワクワクする。役名紹介と共に素面のカットインも流れるのだが、大人ヒカリと子どもヒカリが並んでけん玉を失敗し、照れくさそうに笑っているのがとてもよい。丸くなったというか明るくなったというか。明は手に6号パペットを嵌めているが、いずれ出世してワゴンさんならぬ車掌さんの後釜に座るようなこともあるのかもしれぬ。当初は烈車内に立ち入ることすら忌避されていたことを思うと感慨深いものがある。
 その元・ワゴンさんはまるで月に代わってお仕置きでもするような衣装替えシーンを披露。なんだか豪華! 愛されてるな~! 担任の押川先生との記念写真で嬉しそうに肩を抱いている大人ライトも微笑ましい。笑って泣いて、あっという間の53分でした。良いものを見た。

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