見出し画像

★「NALU」2013年7月号"Gato Heroi Dynamic Endevourin Japan ロビンキーガル新島へ!"

波高6メートル、秒速20メートルの強風の中、船体に打ちつける波音を聞きながら私たちは近づきつつある島影を見つめて操舵室の中で身を寄せ合っていた。その中の一人が「大丈夫かな。沈まないよな。」とつぶやいた。すると他の一人が「これくらいは大丈夫さ。しかし俺達ののトリップはいつも波乱だな。あいつ自身が嵐みたいだからな」と返す。一瞬、笑い声が響き渡った。あいつとはもちろんロビーのことだ。定員2名の操舵室に船長の他5人がすし詰めになっている。何しろ船底の部屋は洗濯機の中のようにグラインドし、周囲が閉ざされていることもあって爆睡しない限り船酔いは必死だ。その場を逃げ出しても操舵室以外に猛烈な水しぶきをかわす場所はどこにもない。残念ながらロビーは出遅れていた。ロビーは片足だけを船長室に滑り込ませた状態でずぶ濡れになりながら震えていた。「あと30分だ」と船長言った。


4月5日。『ダイナミックエンデバーTOKYO』。むせ返る熱気の中、オーストラリアの詩人マーシーの朗読が始まった。その姿はまるでジム・モリソン風ではあったが唐突でしかも英語ということもあり、来場者は少なからず困惑し始めていた。そこに和太鼓奏者の岡村竜司がセッションに加わった。岡村の刻む壮大な和のリズムは言語やカルチャーの違いを感じさせずマーシーの朗読を引き立て、会場を興奮の渦に巻き込んだ。これはロビーのアイデアだった。今夜は世界各地国から仲間が来ている。音楽と同じようにサーフィンにも国境はないのだ。存在するのはリズムが生み出す力強い鼓動だ。まさにダイナミック・イズ・リアリティ。
2年ぶりの来日となったロビー・キーガルは待ちわびたファンのために満面の笑顔を見せながら記念撮影に応じていた。破天荒で近寄りがたい雰囲気を感じさせる半面、こういう場所でのロビーはまったく違う側面を見せる。単にサインするだけでなく、強烈にハグをしたりして期待以上のサービスを振舞う。クールに振舞っていることだけが格好いいことではないとわかっているのだ。その場に居合わせた全員がロビーのファンになるだろう。さすがロビーだな、と感心する。会場には『ダイナミックエンデバー』のテーマボード「サファー」の最新作がディスプレイされ、壁面を二人の写真家の作品が飾った。3つのプロジェクターは別方向に向けられ、ロビー、ヤン、ペロの作品が順に映し出された。300人以上の熱気とロビーのオーラが会場を支配した。世界各地から集まったガトヘロイの仲間は観客と一体になってビールとワインで酔いしれた。

2011年に始まったロビー・キーガルの「フリークウェイブツアー」は、オーストラリアでショートボードレボリューションを巻き起こしたボブ・マクタビッシュに会ったことで新たな局面を迎えた。「ショートボードの出現がなかったら、ロングボードは今とは違う進化を遂げていたはずだ。」そしてそのツアーは『ダイナミックエンデバー』と名を替え世界中の仲間と共にウェスタンサハラに渡った。自分の作り出したボードの真価を試すために。そして次の言葉を口にした。

Style is everything.
Function is more important.
Dynamic is reality.

これを実証するのが『ダイナミックエンデバー』だと。

興奮冷めやらぬショーの翌日、新島に向かう夜十一時の大型船の出発に向けて、準備をしていた。しかしその時にはまだ、これから待ち受けているさまざまな困難を誰も知る由はなかった。
午後5時。私は人数分のボードを藤沢で積み込み、写真家のペロさんと東京に向かっていた。夕方からの風雨はさらに強まり、私は助手席でラジオから流れてくる各地の天候状況に耳を傾けていた。
午後6時。最初のアクシデント。東海汽船の欠航が知らされた。そして電話口の係員は私たちをさらに驚かせた。「明日から大型船はドックに入るので、次回の運行は4月26日からです。」東京から新島に渡る方法は3通りある。ひとつはこの大型船。その他は高速船と調布飛行場からのセスナだ。ただし高速船とセスナにはロングボードを積み込めない。
私はずいぶん以前から、この『ダイナミックエンデバー・イン・ジャパン』の目的地は新島と決めていた。限られた日程で重要なのは波のコンディションだが、新島はその確率が高く、比較的距離が近いにもかかわらずトリップ気分が味わえる。そして何よりも30年以上前に行った新島を私自身もう一度目にしたかった。

しかし万事休す。「行き先を変更するしかないな。ロビー達に伝えなきゃ。」と考えているうちに名案が浮かんだ。伊豆の下田から新島行きの船があることを思い出した。早速、下田の神新汽船に電話をした。「明日朝、9時20分に新島行きの便があります。」私は即座に考えた。間に合うかなあ。首都圏を直撃した突然の春の嵐は各所の交通をマヒさせていた。彼らが今日中に下田に到着するためには、滞在している赤坂のホテルを8時には出なければならない。その時、7時を過ぎても私達はまだ第三京浜を渡りきっていなかった。突然電話が鳴った。雑誌編集者の佐野さんからだ。「今、都内にいるんですけど。僕も新島に行きます。」私は突然の吉報に感謝した。佐野さんとはメキシコに旅をしたことがある。だから頼み事もしやすい。「もちろんいいですけど、ちょっとお願い聞いてもらえますか。実は明日の朝の下田の便で新島に渡りたいんですけど、今夜8時にホテルを出発して下田に向かわなければ間に合わないんです。彼らを連れて行ってもらえないですか。」もちろん佐野さんもその後の展開を知るわけもなく、のんきな調子で「いいですよ。ホテルに迎えに行けばいいんですね。」と引き受けてくれた。私とペロさんは結局8時直前にホテルに到着し、全員に事情を説明した。もちろん何も知らない彼らは突然の旅程の変更など意に介さない。とにかく「ニューアイランド」にたどり着ければいいのだ。挨拶もそこそこに佐野さんとアメリカ人、フランス人、イタリア人、オーストラリア人の総勢十一人は東京駅に、私とペロさんは一路下田に向かった。天候を考慮し海岸線のルートではなく沼津からの天城越えのルートを選択した。雨量が多いときには通行止めになることで有名な道だが、私達は多少の不安を抱えながらも運を天に任せていた。

午後十時。2番目のアクシデント。佐野さんから電話だ。「あのー電車が止まっちゃいました。今夜は伊東から先へは行かないそうです。」そんな、と思いながらも「じゃあ今夜は伊東に泊まって、明日の朝の8時半までに下田駅に来てください。」と、伝えて電話を切った。そして翌朝、電話で目が覚めた。「すみません、乗り遅れてしまいました。」
4月7日。下田駅の改札前に立つ私達の前に、到着した彼らは申し訳なさそうに現れた。私達は下田で1日を過ごすことになった。下田一帯も強烈な西風に襲われていたが私達はオフショアを期待して半島の東側に向かった。そして炸裂する波を見て興奮に包まれた。強いオフショアがオーバーヘッドの速くパワフルなクローズ気味の波に一瞬の間、完璧なフェースを作り出していた。圧倒的なスピードを誇るガトヘロイのボードには最適な波だ。ロビーとアンディはグラブレールでボードを押さえつけながら次々と透き通った波をメイクした。明日からの新島トリップの期待はさらに高まった。
4月8日。昨夜までの嵐がうそのように早朝の下田の街は静かだった。気楽な気分で、神新汽船のウェブサイトを見た。
3度目のアクシデント。そこには「本日欠航」の文字。海上のうねりがまだ収まっていないらしい。再び万事休す。呆然となった私はホテルの階下に降りた。するとそこにはすでに支度を整えたロビーが待っていた。その姿を見て私は彼を失望させたくないと思った。「港に行ってみよう」とロビーを誘い出した。そして船上で作業をしている人に片端から声を掛けた。「新島まで連れて行ってもらえませんか。」30分が過ぎ、あきらめかけた頃、「丸吉水産」というビルが目に入り、思い切ってドアを押し、事情を説明した。すると親切にも新島まで連れて行ってくれる漁師さんを探し出してくれた。
私達は漁船「富丸」の操舵室から迫りくる新島を見つめていた。壮大な断崖の下に広がるエメラルドグリーンの海岸線、白い砂と頭サイズのクリーンなラインナップに一同は目を奪われた。やっとたどり着いた。お世話になった「サーフステーションハブシ」は世界的に有名なサーフスポット「羽伏浦」の目の前という絶好のロケーションだ。コテージ風の各部屋に荷物を放り込むと、すぐにボードを手に乳青色の海に飛び込んでいった。

新島は最高だった。島の東側、羽伏浦は一面の白い砂浜にうねりが斜めに入り込み、そのため無数のレギュラーブレイクが点在していた。噂に反してロングボードも楽しめる波質だ。温暖な気候と海水はまさにパラダイス。「俺は10年以上前から何度も日本に来ているのにどうして教えてくれなかったんだ」とロビーが言った。そのとおりだと私も思った。どうしてこんなに素晴らしいところを今まで見過ごしていたのだろう。ロビーだけでなくフランス人も、イタリア人も、オーストラリア人も、「こんなにいい場所は世界中にもそんなにないよな」と言い合った。もちろん仲間が一緒だから一層気持ちが高ぶっているのだが、新島はそれをも凌駕するほど魅力に包まれていた。翌日は南側のシークレットまで足を伸ばした。サイズは下がったが、波は無数にある。それぞれがお気に入りのボードを堪能した。疲れた体は無料の天然温泉で癒し、そして島の寿司を堪能した。
ロビーは本当に不思議な存在だ。誰もが口を揃えてクレイジーだという。自分の意見に逆らう奴は容赦しない。レジェンドの言葉には深く耳を傾けるが、同世代に対しては辛らつだ。誰もが距離を置きたがる。本人はそんな状況を意に返さなかったが、カリフォルニアの将来には悲観的だった。だからフランスに移り住んだ。相変わらず身勝手で周囲を困惑させることは日常茶飯事だが、各国に散らばる仲間は寛容だ。ロビーが仲間を人一倍大事にすることも知っている。そしてロビーが本物だということを知っている。
今回の仲間は心を許せる本当の友達同士だ。年齢や国籍は違っても、気を使い、助け合い、そして笑い声が絶えない。サーフボードの開発に没頭するロビーはサーフボード以上に素晴らしいものを作り上げたのかもしれない。このロビーのパワーこそリアリテイに違いない。

4月10日。最後のアクシデント。帰りの船の時間を確認すると、そこには「毎週水曜日は運休日」。ガトヘロイの旅にスケジュールは無用なのかも知れない。でも、とにかく新島は最高だった。