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【ダイナミックエンデバー“SURFAR!”】

遡ること2週間前、パリのシャルルドゴール空港に降り立った私は少し遅れてロサンゼルスから到着するクリスの出迎えに向かった。

現れたクリスは片手にすべての荷物を積み込んだ手製のダッフルバッグ、そしてもう片方の手には7'11ftの見慣れないボードを持っていた。そのボードはエアキャップに包まれた状態ではなく、片面にワックスが塗られたままのいわゆる裸の状態だった。

「それで平気だったの?」と私が訪ねると、「バッグに入れているより丁寧に扱ってくれるんだ」と言った。

私はそのことに感心するよりも、トランジション系のアウトラインながらほぼロッカーのないように見えるそのボードの形状に惹かれていた。

そんな私の疑問に気付かないクリスは市内行の列車のチケットを買うためにチケット販売機の前に立ち止まった。

何度かボタンを押したりした後、クリスは「買い方がわからない」と私に言った。

約12年ぶりにパリに来た私にもその販売機は手ごわいもので、結局窓口で2人分のチケットを購入した。

電車の中で私はこの旅の予定についてクリスに尋ねてみたがクリスは「ロビンに聞かなきゃわからないよ。知ってるだろ、あいつ説明できないんだから」と言った。

私は3週間を超える長い日程と久しぶりのヨーロッパを満喫したいということもあって「俺はモロッコまで行って少し落ち着いたら、格安航空券を買ってスペインやイタリアを周りたいんだ」とクリスに言った。

すると「それは無理だよ。だってモロッコではキャンプするんだから」、「俺とお前はいつも一緒に被害者だな」というような眼をしながらクリスは言った。

蒸気に濡れたテントの内側、ムッとした内気、虫の襲来・・・私は幼い頃よりテントというものが好きでなかった。

どちらかというと乾いた布団にくるまれるほうが好きだった。だから50歳を過ぎてテントに寝るとは想像もしていなかった。「何とか切り抜ける方法を見受けなきゃ・・・」と私はパリの夜の灯りを見ながら考えていた。

パリ北駅を降りるとそこは何となく秋葉原のような雑踏だった。私たちはホテルまでの距離がかなりありそうだったのでタクシーに乗ることにしたが問題はクリスの持っているサーフボードだ。

「サーフボードって言ったら断られる可能性があるから、お店の看板の一部ということにしよう。どうせパリのタクシー運転手はサーフボードのことは知らないから」とクリスが提案し、そのおかげで意外にも簡単にタクシーに乗ることができた。

無事にホテルに着いた私たちはさらに問題に降りかかってきた。予約していたホテルの部屋はダブルベッドだというのだ。他に部屋がないということで仕方なくその後の4日間はクリスと添い寝するしかなくなった。

部屋にいて隣り合わせでベッドに寝そべっていてもしょうがないので、私たちは夜も街に出て遅めの夕食をとることにした。

日曜日の遅くだったがパリの中心なのでレストランには事欠かないだろうと思っていた期待はすぐに裏切られた。私たちのホテルの周辺は観光地の真ん中だったので、私たちは真っ先に目に飛び込んできたオペラハウスに向かった。

偏食家で肉、しかもフィレしか食べないクリスのためにようやく一見のレストランを見つけた。かなり華やかな雰囲気で期待ができる様子だ。案内された席につき、ステーキとワインを注文した後、周囲を見回しクリスが小声で言った。「日本人とロシア人しかいない。ちょっと失敗したかも・・・」

パリを旅した経験がある方ならわかるかもしれないが、何の情報も持たずにおいしいレストランにたどり着くことはほぼ不可能だということを。結果、私たちの注文したステーキは今までに食べたことのないようなしろものだった。

「明日は美味しい食事をしよう」と言いながら、私たちは並んでベッドに横たわった。

私たちが目的地であるモロッコに直接向かわず、パリを経由したのには理由があった。【SURFAR!】と名付けられた今回の旅はデジタルではなくフィルムによってその記録を収めることになっていた。

そのためすでに当時でも入手が困難だったスチールカメラ用と8ミリカメラ用のフィルムを調達することが私たちの任務だった。

私たちはタクシーと徒歩でかなりの件数のカメラ屋を周り、カバンいっぱいのフィルムを買い込んだ。

その夜、二人のゲストが日本から到着した。旅に参加する中村清一郎氏と清太郎君だ。

中村さんはロビンキーガルの才能をいち早く見出した人ですでにロビンとは前年にフランス、イタリア、ニューヨークを旅していた。中村さんは息子である清太郎君を世界最先端のロングボードに乗り、ダイナミックなアドベンチャートリップへと向かう集団に引き合わせることによって大きな刺激を与えようと考えたようだ。

ただなぜ二人もパリに立ち寄ったのかは今となっては思い出せない。しかしパリに詳しい中村さんのおかげで私たちは美味しい夕食にありつくことができた。

思いのほか簡単に任務をこなせたので、私たちはいつでもモロッコに向かう態勢を整えていた。

ただしそれはロビン次第だった。ロビンはその時、フランスのビアリッツにいた。ビアリッツで旅に参加する人数分のサーフボードをバンに積み込み、スペインを縦断しジブラルタル海峡をフェリーで渡り、モロッコの首都ラバトのホテルで合流する予定だった。長距離の移動になるため一人ではきついので、いつもどおり写真家のペロさんが運転手として帯同することになっていた。

私はパリからいつでも出発できることをペロさんに電話した。しかし帰ってきた答えに驚かされた。「出発するためにホテルをチェックアウトしたいんだけど、お金が足りないんだ・・・」

今からアフリカ大陸に旅に出ようっていうのに、もう金欠かよ・・・と先行きに不安を感じていたが、数日後にはお金が手に入るらしいということになり、私たちはなすすべもなく、その間ずっとパリで過ごすことを余儀なくされた。

ルーブル美術館、シャンゼリゼ、サンジェルマンそしてベルサイユ宮殿。私たちは表面上ただの観光客となっていた。しかし11月末のパリは大変寒い。石造りの街はまるで冷蔵庫のように私たちの体を芯から冷やした。それはその後、テントの中の中村さんに苦境をもたらすことになった。とにかくアフリカに行く用意しかしてなかった私たちは寒さに震えながらパリの街をさまよっていた。

数日後、ペロさんから出発できるという一報が入り、私たちは急遽、ラバト行きの飛行機に乗り込んだ。

コーランが鳴り響くラバトに降り立った私たちを再び悲劇が襲った。

パリで預けた荷物のうち、クリスのダッフルバッグが出てこないのだ。

まったく言葉が通じない状況の中、何度も掛け合ったがなすすべもなく、私たちは空港を後にするしかなくなった。

そのバッグの中には、パリで購入したすべてのフィルム、サーフボード用のワックス、そしてフィンを止めるボルトとナットが入っていた・・・

私たちはタクシーに乗りホテルの名を告げた。私たちを待ち構えていたのは、それまでに見たこともないような風情を持つ瀟洒なホテルだった。

どうやらロビンファンのフランス人の親族が経営しているらしく、私たちは格安で泊まることができるそうだ。

絨毯の敷かれた長い廊下の先に私とクリスの部屋があった。ホテルのラウンジで寛いでいると、ロビンから電話がかかってきた。

「車の車検証が見つからなくてスペインからモロッコ行きのフェリーに乗れない」ということだった。いったいいつになったら旅が始まるんだろう。

(後編)


【ダイナミックエンデバー“SURFAR!” #2】

私たちが宿泊していたのはモロッコの首都ラバトの市街地のはずれにあるヴィラ形式のホテルで広大な敷地の中にいくつもに枝分かれした客室があり、庭には孔雀が放たれ、もちろんプールもあり、地下には「ハマム」と呼ばれるアラブのスタイルのサウナがあり異国情緒があふれていた。

このホテルはフランス人の裕福な一族が所有し、レストラン、ラウンジ、バーは非常に格式を感じ、他の滞在客を見ても非日常を感じさせてくれた。

一族の一人がサーファーであり、ガトヘロイのファンということでロビンをこの地に誘ってくれたというのが真相らしい。

当時は「アラブの春」と言われた民主革命がアフリカ北部のイスラム系の国で興っており、モロッコにも革命の波が来るのではないかと市街地には国連のマークを付けたジープがバリケードを築き、ライフルを携えた国連軍(?)が街のいたるところに配置され不穏な空気が漂っていた。

それでも市街地以外はどこ吹く風で、特にメディナと呼ばれる迷路のような旧市街地ではコーランが鳴り響き、初めての私を感動させるアラビアンナイトの世界を垣間見せてくれた。

ロビンの到着までには数日かかりそうなので、暇を持て余していた私たちをオーナーファミリーの一員であるアントワンがサーフィンに連れ出してくれた。

ホテルから1時間弱南西に走った「ボズニカ」は砂丘の下に広がるビーチブレイクで、ずいぶん遠くに来たなあと思わせるところだったが、そこから5分くらい走った丘の裏側はしゃれたサーフリゾートといった感じで、郷愁も吹き飛ぶようなモダンな光景に愕然とした。

レギュラーのポイントブレイクは風の影響を少し受けていたが、中村親子、クリスはフランス経由の長い旅の埃を落とすようにアフリカ初のサーフィンを楽しんだ。

そんなことをしながらロビンの到着まで数日を過ごし、いよいよ幾多のトラブルを乗り越え、ロビンとペロさんが到着する日となった。

大体の到着時間を聞いていたにもかかわらず、その時間になってもなかなか現れないのはいつものことなので、私たちはホテルのラウンジで彼らを待つことにした。

ロビンが携帯電話を持っていないことはすでに有名だが、彼は「ずっと昔は天気予報と地図を頼りに波乗りに行った。波が当たるときもあればそうでないときもあった。それがサーフィンだ」と完全に時代錯誤の考えを持っているためカーナビを使用せず、まったく当てにならない感だけを頼りに迷ったらとにかく現地の人に聞くのが常だった。

ところがロビンはどこに行っても大体現地の言葉がわからない上、理解してないのに理解したふりをしてしまうことがよくある。そのために1日中道に迷ったりすることも数知れず(信じられないことに事実)、路肩に車を何度も停めるために頻繁にタイヤをパンクさせた。

ましてやアラビア語。わからないなら、わかったようなふりするなよと、言いたくなるが、そんなことでも言おうものなら完全に逆上し、車を突然路肩に停めて(この瞬間によくパンクさせる)「なぜ俺はお前たちのためにこんなに苦労しなければならないんだ。俺一人だったらこんなことにならなかったのに。お前らは足手まといだ。この旅は終わったら絶対にお前らとはもう会わない・・・」などと1時間以上は被害妄想による口撃が始まるのは誰もが承知しているので、「きっと今頃ペロさんは助手席でロビンの言うことに片言の英語でイエス、イエスと同調してるんだろうな」と思いながら、私は当地の定番であるミントのたくさん入った甘いお茶を嗜むことにした。

それから数時間後、彼らは現れた。ロビン、ペロさんの車にはバンジョーを持ったちょっと小太りのブラッドフォード。彼はアメリカ東海岸ノースカロライナ出身のロビンのファンで裕福な家庭に育ち、自称プロのバンジョー弾きらしく、ロビンを追ってフランスに渡ったところ逆にロビンとペロさんにホテルに居候をされていたようだ。今回もただ単にお金を持っていいることと国際電話が掛けられる電話を持っていたことが評価されトリップのメンバーに加えられた。

ラウンジでブラッドフォードのバンジョーを聴きながら、すでにそれまでに起こった旅のアクシデントを披露しあっていたころ、もう一人のアメリカ人がバスに乗ってやってきました。(飛行機じゃないと言っているが、いったいどこからバスで来たんだろう?)名前はヤンペッシーノ。ニューヨークの東ロングアイランドの東端にある有名な景勝地にして大富豪の邸宅が並ぶモントーク出身の自称フォトグラファーとうことだが、どうやらその一族は世界的に有名なアルコール飲料の会社のオーナーらしく、彼もまたロビンのファンであったために金の力にものを言わせてこのトリップに参加したようだ。今回の旅ではフィルムカメラによる撮影を任されているらしい。

そのずっと後、このブラッドフォードとヤンは「ペソス」というインディーズバンドを組み、西海岸で大変成功を収めることとなった。

フランスからはもう一台やれたポンコツ寸前のフォルクスワーゲンのバンが到着した。後にロビンとともにガトヘロイフランスを立ち上げるギュエムとオリエンのカップルだ。ただし彼らはお金を節約するために、ホテルの敷地内に車をとめてそこで寝泊まりをするという、前述のワイルドに装っても裕福さを隠し切れないブラッドフォードとヤンとは明らかに違う、フランス人らしい本物ワイルドな雰囲気を漂わせていた。

ロビン、クリス、中村親子、ブラッドフォード、ヤン、ギュエム、オリエン、ペロさん、そして私が出発メンバーとなり、波のコンディションを見極めながらラバトを出発し、南西部のエサウィラという街でオーストラリアのアンディ、そしてカリフォルニアから当時ガトヘロイのマネージャーをしていたラリーと落ち合うということを聞かされた。彼らはあの有名なマラケシュからバスで来るらしい。

この時点で、どうやら私が思い描いていた、途中抜け出して格安航空券でヨーロッパを周遊しようという夢は断念せざるを得ない状況だとわかってきた。

この先は砂漠と瓦礫が広がる荒野のテントの中に身をゆだねるしかないようだ。

今までいろんなところにいろんなところを旅したがサーフィンしている時間だけではなく、朝のそわそわした雰囲気、サーフィン後のまったりとした時間もまた旅を楽しくさせてくれる。そして極めつけはやっぱり夜の時間だ。ビールを飲みながら一日を語り、ワインを飲みながら当地の食事を楽しむ、そして夜の街に繰り出す・・・

でもここはモロッコ。そうイスラム教を国教とする国だ。ご承知のとおり飲酒はかたく禁じられている。

と、思いきや私たちが泊っていたホテルのバーには多種多様な酒が並べられ、街中のレストランに行ってもそれに困ることはなかった。

その上、「秘密の」という酒屋も各町には数件あるようで、私たちが買い出しに行った時にも足の踏み場もないほどの繁盛を見せていた。

私たちは夜遅くになって街に繰り出した。目当ては「クラブ」だ。そこではビールを片手に踊り狂う者、目の周りに濃い化粧を施し物色するような眼を
向ける女性などで溢れかえっていた。まさにパリかニューヨーク?と思わせる実情の光景に少々驚かされた。ともかくこの旅でもお酒に困ることはないようだ。

翌日から、ミーティングが繰り返された。

私は勝手に、このメンバーだけでサーフキャンプに行くのだろうと思っていたが、広大な未知の場所で的確に波を当てること、砂漠や瓦礫の山での緊急時の脱出、犯罪のリスクなどを考え、現地のコーディネーターに全体を委ねることになっていたようだ。

隊長のカリームはフランス人とモロッコ人のハーフで見るからに屈強な体をいかしサハラ砂漠、アトラス山脈でプロのツアーガイドをしているらしい。

趣味でサーフィンをしているがモロッコからさらに南西に広がるウェスタンサファリまですべてのポイントを熟知している。頼りがいのありそうな男だ。

カリームの話ではここ数日間は天気が悪く、砂漠を走ることは無理らしい。雨の時は風向も悪く、海上にある低気圧が移動するのを待つということだ。

ロビンは広げられた地図を見ながらポイントブレイクがありそうな地形を一つずつ指さし「ここはどうだ?」「誰もいないということが大切なんだ」と言っていた。私は「おいおい、そんなとこまで行くの?」「いつ帰れるんだよ」と少々不安になっていた。

どうやら数日間は出発しないし、ホテル近郊でのサーフィンもないようだ。

メンバーはそれぞれに街に出かけたり、ホテルのプールで泳いだり、たまにホテルの景観を利用してサーフボードの撮影をしたりして時間をつぶした。

ある日、私はロビンに誘われ、クリスとともに三人で観光に出かけた。

ロビンと初めて会ったのは彼が16歳の時だった。最初の来日で大活躍をした彼はその翌年、クリスを伴って再来日した。アメリカ人にとっては貴重な14歳の誕生会を日本で祝った。あの時から12年が経っていた。

12年の間に彼らはカリフォルニアサーフィン界の寵児となった。

16歳当時、ドラッグ中毒に陥り世間からエスケープしていたクリスを最初のクリームハウスと呼ばれたショップを立ち上げるとき、壁のペンキ塗りとしてロビンは雇った。

クリスはアシスタントとして様々な雑用をこなしロビンを支えた。時には喧嘩して長期にわたり離れ離れになった時もあったが、時間はその障壁をいつも和らげ、彼らのコンビは続いた。

意図的に断絶されたロングボードとショートボードの真のトランジションを実現させる完璧なサーフボードづくりに没頭するロビン。その一途さのあまり周囲の人間と衝突を繰り返し、日常的にトラブルを抱えているロビン。そのロビンも内気でやさしい性格のクリスの才能を認めていた。

サーフボードに関する知識においてはロビンにも引けをとらず、レジンアートの技術と才能においてはロビンを上回っていた。ご存じのようにサーフボードはウレタンをシェープしレジンでラミネートされる。まさに彼らは一心同体だった。

アシスタントから始まったクリスのポジションは、この時はすでに公に“パートナー”として紹介され、その存在は広く知られていた。

ロビンが作る創造性の高いサーフボード、クリスが得意とするレジンアートの組み合わせは、それまで誰も作ったことのない機能と芸術性のあるボードを生み出していた。

私たちは旧市街のはずれに車をとめ、迷路のような雑多な通りを歩きながら地元のファストフードを歩きながら食べた。食が細いクリスに対し、豪食のロビンはまずはその土地のものを必ず一番に食べる。その土地に馴染み入るのがロビンのスタイルだ。

特にこの頃は、自分のルーツが中東にあると信じていたためアラブ系のメディテレーニアンフードは彼の食の中心にあった。ちなみに私自身はロビンキーガルはどこをどう切り取っても超典型的なドイツ系のアメリカ人だと信じて疑わない。

コーランが鳴り響く中、古いモスクに立ち寄った。モザイクが施されたタイルの床はひんやりとして足元から心を清めてくれる感じがした。

「3人でこんなところにいるなんて不思議だな」と話をしながら、近くのショッピングモールに立ち寄った。

その中にあった古びたゲームセンターの風船アトラクションのような中で二人は戯れた。

この旅が終わるころ、もう二度と元には戻ることがなくなるとは、この時は誰も予想していなかった。

何もしないのに1週間ほどあっという間に過ぎた。

とうとう出発の日を迎えた。

キャンプ用具を満載したトヨタの大型ランドクルーザーには料理を担当するベルベル人、雑用係を乗せカリームがハンドルを握った。その後ろにロビン、ギュエムが続いた。

数時間後、最初に立ち寄ったのはカサブランカにある大型スポーツ用品店だった。

ここで何をするのかと思っていたところ、隊長のカリームが言った。

「寝袋を買え!」

私はこの先に待ち受ける旅を想像し、行きそびれたヨーロッパの街巡りに対する想いを胸の中に閉じ込めた。

途中、ポイントに立ち寄ったり、小さな宿に宿泊しながら南下した。

アルガンの樹の丘を抜け、崖を下り、砂丘を走り、広く大西洋が見渡せる崖の上に到着した。

眼下に巨大な波が爆音を伴って砕けていた。

それはミルクコーヒーのような色をしていた。

(旅は続く)


【ダイナミックエンデバー"SURFAR!"】最終章

崖から遠く見下ろす大西洋は遮るものもなく広大だった。

このミルク色に濁る広大な海は、私たちが普段見る青く透きとおった海のように心地よい安らぎを与えてくれるというよりは、なぜか重い気分をもたらせてくる。

遠い昔、ヨーロッパの人たちはこの先に何があるか知らなかった。知らなくても夢と希望を求めて沖に向かった。

ある者は西に向かい新大陸を発見し、ある者は南に下り、その南端の岬に喜望峰と名を付けた。

遠い昔の偉人とは比べ物にならないのは当然だが、私たちもまた旅の途中にいることを実感させられた。

沖合1キロほどにブレイクする巨大なうねりは、いったん態勢を整えて、私たちの足元のリーフにさく裂し、完璧なシェープを維持したまま足元左前方数百メートルまで続いていた。

「危険だな。俺とクリスが先に行って様子を見てくる」とロビンが言った。

よくよく足元を見ると、波がぶつかる崖の下にはいくつもの洞窟が白く深いスープを飲みこんでいた。かと思うと、まるで鯨が潮を吹きだすように、猛烈なしぶきを吐き出していた。

「あそこに吸い込まれたら死んじゃうな」とブラッドフォードが言った。

ロビンはこの旅のために作ったジャングルアシッドの9フィートを手に取った。「SURFAR」とハンドシルクスクリーンでラミネートされたセミガン系のシングルフィンだ。

「この1本があれば世界中の旅を楽しめる」というコンセプトだ。

クリスはジャングルRPG。今では戦争映画の中などでよく耳にする言葉だが、当時は私は意味がわからずクリスにたずねてみた。「ロケット・プロペラ・グレナード(手りゅう弾)の略でロケット推進式擲弾」という意味らしかった。

その名にふさわしく二人は岸壁から飛び降り、迫りくる波に突撃した。

サイズはオーバーヘッド、セットはダブル以上。それほど掘れていないがはるかかなたの低気圧から発せられたエネルギーはこのアフリカ西岸まで衰えることはなかった。

一瞬の気のゆるみが死を招くといっても過言ではないほどのシビアなコンディションだ。ましてや「Surf is Free」を標榜し、どの地においてもノーリーシュで挑む彼らは、いくら上級者とはいえ危険であることは変わりなかった。初めてのポイントに入るということの緊張感は私たちにも伝わってきた。

ファーストテイクオフはロビン。ダブルの波にレイト気味にテイクオフし、フェースをフリーフォールしながらフロントサイドのレールを斜面に入れた。その瞬間に発せられる驚異的なスピードは彼のボードの真骨頂だ。まるでショートボードのようなラウンドハウスカットバックを繰り返した後、チーターファイブの態勢で波の彼方に消えていった。

この波は崖下右奥からテイクオフし左前方の沖に向かってブレイクしている。

崖の上からカメラを向けると果てしなく遠ざかってしまう。周辺は瓦礫でアルガンという樹がぽつぽつと点在しいる。

同じ砂漠でもメキシコで見るサボテンの荒野とは趣が違う。羊が餌を食み、民族衣装を着た少女がロバに乗って追っている(驚くことにその手に携帯が握られていることもある。ながらドンキーだ)

日本を発ってすでに10日ほど経過しているのか、もうはっきりとした記憶はたどれないが、来てよかったと感じられた。

極寒のパリが原因で体調を崩しつつあった中村さんは「俺はこのために来たんだ」と言って、ボードを手に崖を降りて行った。

夕刻になりブラッドフォードがワイプアウトして、ボードが洞窟に吸い込まれた。自分のボードを探すブラッドフォードを見ていると彼自身が危険な状況にあることがわかった。

「ボードをあきらめてすぐに上がれ!危ないぞー」

その瞬間、行方不明だったボードが洞窟からしぶきになって噴出された。まさに粉々になって・・・

その夜、キャンプ地に到着した。

手慣れたスタッフが設営を始める。

50歳の手前だった私は「この年でテント生活か」と覚悟を決めていたが、見る見るうちに設営されたまるで映画のセットのようなテント群を見てその不安はなくなった。

4人ずつの宿泊用テント、シェフ専用のキッチンテント、そして30畳はあろうかというリビング、ダイニング用の大型テント。

テントの入り口にはフルーツが盛られ、銀製のティーポット。内部は絨毯が敷き詰められ、長テーブルの周りにはクッションが置かれていた。

「心配することはなかった。これなら来てよかった」とほっとした。

それから数日間、そのキャンプ地を拠点に前日のポイントに行ったり、他のポイントを目指した。テントの前には無人のレギュラーのビーチブレイクがあり、出発前や夕刻の食事前はカメラマンのペロさんや私もカメラを置き、サーフィンした。

最っとも隣の街もはるか遠くだ。灯りは私たちがテントに灯しているランプだけだ。

360度を星が覆いつくしていた。いや足元に広がるそれは360度以上だ。冬は一番星が多く見える季節だが、それを差し引いてもそれまでにこんなに多くの星を見たことはなかった。

一つ一つの星は輝き、まるで生き物のようだった。古代西洋の人達が星を見ながら名前を付けたり、物語を作ったことは想像するに易しかった。

1週間ほどたったが、初日ほどの波には当たっていなかった。

ストレスが溜まりつつあったロビンは隊長のカリームに拠点を変えることについて聞いていた。カリームが言った「来週、サイズアップする」と。すかさず「じゃあ日程を延長しよう」とロビンは言った。

私はサーフショップをしているとはいえ、彼らのように「日程はどうにでもなる」というわけではない。日本に帰ってお店に立たなければならないし、いろんなことに責任を負っている。

私は「俺は帰らなきゃならない」とロビンに伝え、ロビンもそれに納得した。

中村さんは体調を崩していたので、私と帰ることになった。

その後、クリスが言った。「俺も帰るよ」

それはロビンの撃針に触れた。

「なんで帰らなきゃならないんだ」

「サミーとクリスマスを過ごしたいんだ」

「この旅に俺たちはどれだけ犠牲を払い準備をしてきたと思ってるんだ。来週は波が来るんだぞ。今まで経験したことのないような波が。それなのにお前は彼女とデートしたいだけのために帰るっていうのか。お前は本当にサーファーか?」とまくしたてた。

それから顔を合わせるためにロビンはクリスを罵った。

クリスはただ下を向いていた。

時にロビンは下手に出て、クリスに取り入ろうとしたが、それも不発に終わった。

そうやって日数が過ぎた頃、クリスは私に言った。

「俺は帰ったらガトヘロイを辞めることにしたよ。もうロビンとは一緒にやれないんだ。わかるだろお前には。ずっと長く一緒だったから。帰ったらサミーと一緒にアパレルブランドを立ち上げるんだ。“パシフィックスペシフィック”っていうんだ。海からの特別なものって意味なんだ」と言った。クリスは旅の前からすでに決心していたようだ。

同じ日の夕方、夕陽を見に丘に登った時、フランス人のギュエムが近づいてきた。

「ロビンからフランスで一緒にガトヘロイをやらないかって誘われたんだ。もうカリフォルニアには戻るつもりはないらしい。俺にできるかなあ」とうれしさと不安が混じった表情で言った。

「大丈夫だよ。ロビンは才能にあふれてるんだから。本当はいい奴だし・・・・厳しい時もあるだろうけど、信じて大丈夫だよ。仲間を大切にするから」

12月1日、ロビンキーガルはアフリカ西海岸のテントの中で28歳になった。

郷土料理のタジンを囲みながらアラブ語、日本語、フランス語、イタリア語、英語でハッピーバースデイを歌って祝福した。

彼は長年の相棒を失いつつあったが、未来は決して暗くないと感じたはずだ。

翌日、私たちはキャンプ地を離れた。

次の週も波は上がらなかったらしい。

その後、ロビンはギュエムとともにフランスの南西部ギタリーに工場兼ショップを構えた。

クリスとサミーの“パシフィックスペシフィック”の出だしは好調だったが、数年後二人は別れ、クリスは現在ドラッグに侵されている・・・

(終わり)