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The Surfers Journal 22.6

2014年に発売されたアメリカの権威的な雑誌「サーファーズジャーナル」において、エディターのケビンオサリバンの依頼により原稿を提出させていただきました。

タイトルは “もしもフィル・エドワーズが月に行ったら” ということで、内容はロビンとの長年の腐れ縁についてです。


初めてロビーと会ったのは1999年の9月。前年にサーフショップを始めた私はプロモーションの一環として私のショップ、ボードが雑誌に取り上げられる方法を模索していた。ちょうど雑誌「NALU」が第1回のコンテストを開催することを知り、取引先である Dewey Weber surfboards に大会で活躍できるサーファーを派遣して欲しいと依頼した。

そして当時15歳のロビーと成田空港で初めて会った。当時は今よりもずっと小柄であったが早口で一方的にしゃべりまくる姿は同じだった。

ロビーは期待に応えエントリーしたすべての種目に優勝し、雑誌の1面を飾った。
典型的なカリフォルニアのキッズであるロビーと彼の友人は日本でいたずらの限りを尽くし、私を相当に苛立たせたが、今に通じる私のお店の発展が彼のこの活躍に始まったことは間違いない。素晴らしい出会いの始まりだった。

その後、彼は Tyler、Dano のチームライダーとなり、そして自らのブランド Creme を始めた。

彼は多くの人からクレイジーと言われる。私は彼のどこがクレイジーなのかということをずっと考えてきた。

彼は確かにいたずらが好きで、粗暴で、酒に飲まれることも多く、そして傍若無人である。しかしその多くは一般的なアメリカ人に共通している。

私は彼のクレージーさはやりたいことに突き進む時に周囲を顧みないことにあると思う。時に言い出したらあとに引かず、周りの声に耳を貸さず、周囲の友人を困惑させる。しかしそれは子供のような純粋な気持ちがそうさせているのではなく、実は周囲を観察し、歴史を振り返り、人間関係を見極めながら行われている。だから同世代の人間から見ると、彼は自分勝手で、人の意見を聞かず、友人関係もぶち壊すクレイジーなやつと思われる。しかし実際にはレジェンドと呼ばれる多くのサーファーは彼の個性を愛し、ときには一緒に仕事をしようとする。彼はそういった面でセルフプロモーションに長けている。彼のクレージーは実は計算されているのだ。

もうひとつ彼のクレイジーなところは、綿密なプロモーション、計画にもかかわらず、常に生活が破綻していることあである。

彼の視点が一般的な生活を送ること、「仕事が終わるとソファーに座りテレビを観ながらビールを一杯飲み、ガールフレンドと談笑し、週末の午後はショッピングをしディナーをする」にないことは確かだ。

彼にとってはどうすればもっといいボードを作れるかを考えることが重要で、リビングルームもベッドルームも家族との団欒もその範疇にないのだ。

60、70年代はそういったサーファーも珍しくなかったかもしれないが、今も彼は工場の片隅のソファー、またはバンの荷台で睡眠を取る。お金がなければボードを作ればいいのに、その作ったボードを自分でテストライディングしないと気が済まない。彼にとってはボードを売ることよりもボードを作ることのほうが重要なのだ。

だから、そんな彼の自分勝手な振る舞いに付き合いきれないと、友人の多くが彼の元を去っていった。

私も彼の才能を信じて一緒にビジネスを始めたのではない。

彼がクリームを始めた時点では少なくともそうであった。どちらかというと泥沼に足を踏み込んでしまったという感じで、前払いしたお金を回収することが目的であった。約束を守らない彼を訪ねて何度もカリフォルニアに足を運んだ。

うまくいきかけたと思ったら、すぐに足元をすくわれ元の最悪の事態に戻ったことも何度もあった。

しかし彼は逃げることはなかった。いつも壮大なプランを語り、これからはうまくいくからと私を説得した。

いつも信じていたわけではないが、彼の情熱は本物だと感じ、私は彼にボードをオーダーし続けた。

私は芸術的才能もなければ、サーフィンが上手いわけでもない。しかし彼の作り出したボードがほかのブランドのボードとまったく違ったものであることは容易にわかった。

一つ一つのディテールに気持ちが込められているのがわかった。そしてボードを手にすると指先に痺れるような感覚が伝わってきた。これこそ私が彼のボードを信じる理由だ。彼のボードには魂がこもっていると感じ取ることができた。

だから魂を大事にする日本では彼の人気は絶大だ。
しかも誰よりも多くの回数を来日し、日本のサーフィン環境をよく知っている。カスタマーには常にフレンドリーで、そして決して飽きさせることなく芸術的なボードを作り上げる。今や彼のボードの販売数は年間500本を超える。

ときに彼のボードは先に進みすぎているため、日本のユーザーに理解されない時がある。それでも彼は平気だ。「カリフォルニアだって同じだよ。理解している奴は少ないんだ」

2010年、彼は「Freak Waive」というプロジェクトをたち上げ、カリフォルニア、ハワイ、日本、オーストラリアを周り、その年の秋にはヨーロッパに渡りサーフボードを作った。

そして翌年にはヨーロッパへの移住の準備を進めながら、年末に「ダイナミックエンデバー」という新しいプロジェクトをたち上げ、世界各国の友人たちと最果てのモロッコに渡った。いい波に乗り、いいボードを作るために。

「いいボードを作るためにはサーファーとして優れていなければならない。たくさんサーフィンをしなければいけないんだ。それもコンディションの違ういろいろな場所で。そして経験を積んでいいボードを作るんだ」

とにかく彼は新天地を求めていた。ぬるま湯に使ったカリフォルニアの生活には満足できなかった。

彼は世界中を旅し、そして、かけがえのないファミリーと言える友人を手に入れた。

現在、彼を取り巻く環境は飛躍的に良くなっている。彼の視線はグローバルに広がり、世界中に散らばる彼の仲間が、ボードを作り、洋服を作り、そして販売する。一緒に旅をし、次の旅の計画を立てる。

このチームワークが有る限り、彼の進化はサーフボードだけにとどまらないだろう。

世界各地で彼と別れる日、彼は去り際にいつもありがとうという。「お前のおかげだ」と。

しかし私は「それはお互い様だ」という。

私がアレックス・ノスト、マテオ&ブリタニー、ダノー、ジャレッド、CJネルソン、スティーブ・クリーブランド、トロイ、ピックル、タイラー、そしてその他の多くの友人と知り合えたのはすべてロビーのおかげだ。私のビジネスも大きく支えらている。

空港で「もう少しいろよ」と腕を引っ張りながら言われると、私は別れを惜しみ、そして今までのことを振り返り、涙が出そうになることがある。
一緒にいたいのは山々だけどそれはできない。彼の顔を直視しないまま「じゃあな」と言って別れる。それが私たちの関係だ。