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★「NALU」2019年7月号・・・"SHAPE MY LIFE"『ロビンキーガル来日!』


4月2日の夕刻、成田空港でロビンキーガルをピックアップした私は湘南に戻る前に皇居の千鳥ヶ淵に向かった。本来ならその前の週末が見頃であったはずだが気温がさして上がらなかったことと、珍しく風が穏やかだったため、その日は満開の桜が夜空を遮るほどにロビンの来日を歓待した。

10歳に満たぬ頃、母親と育ての親となる老人夫妻は毎週末になるとロサンゼルス市内にあるリトルトーキョーにロビンを連れて行った。空手のポーズをしたり、浴衣を着て盆踊りに興じている写真も残っている。しかし彼が一番好きだったのはお花祭りの時期にだけ食べることができるお団子だった。それによって彼の中に桜という単語がインプットされた。

念願かなって桜に見入る彼に、日本人は桜の花だけではなく、散っていく儚さや清らかさも愛しているということを私は説明し、彼はその話を気に入った。

ロビンキーガルは現在カリフォルニアとフランスに拠点を持っている。しかし彼にとってそれは永遠の地ではない。ここ数年、彼は次なる新天地を探し求めていた。この一年の間だけでも彼はポルトガルに私を呼びつけ、産声を上げたばかりのニュージーランドのロングボードシーンでパフォーマンスを披露し、イングランド南部に永住するための住居を持つ構想を語った。そして今回の来日を機に次のサーフボード作りの拠点を宮崎に定めた。今回私達が宿泊した宿の庭の中央には1本の大きな桜の木があった。その木を見上げながらロビンキーガルは育ててくれた老夫妻の意志を引き継ぐ決意を固めていた。

「今年はモロッコではなくポルトガルに行かないか」とロビンから連絡があったのは昨年の11月の半ばだった。2012年に行われた「ダイナミックエンデバー」以来、彼はモロッコの虜となり毎年12月の数週間、異文化の中で創造の世界に没頭することがルーチンとなっていた。アブストラクトとアラベスクを融合したラミネートデザインなどはまさにその結晶である。しかし昨年はポルトガルに私を招いた。

半年ぶりの再会を地元料理のレストランで祝した後、彼は私をその夜の宿に引き連れた。そこは築1000年ほどの古城を改装したホテルでヨーロッパの村特有の周囲を城壁に囲まれた中の頂上に建っていた。サーファーらしくビーチ沿いのホテルを選択しない彼のこのようなセンスが好きだ。これらの行動の積み重ねが感性を磨き、シェープやデザインに厚みをもたせてくれることを知っている。

翌日、私たちは太平洋に突き出した半島にあるペニシェというポイントに向かった。11月末の雨に煙る中、一人一心不乱に波に乗るロビン。それはまるで幻影を見るように私の瞼に移り込んだ。初めて彼に会ってから20年が経とうとしている。たくさんのことがありすぎた。決して楽しいばかりではなかったが、それ以上に彼から与えられたものは大きかった。私はそんなことを思っていた。

その夜、私たちは世界最大の波が押し寄せるナザレへ向かった。ナザレは大西洋に突き出た岬の先端に立つ灯台の北側の海底の地形がV字谷を形成していることにより押し寄せる水量が急激にかさを増し、その高さは20メートルを超えながらも究極のサーフィン可能な波を形作る。私たちは100メートルほど手前で車を降りたが、すでにその時点で大地は激しく振動し爆音を響かせていた。夕刻の空に照らされる巨大な波は恐ろしいまでに破壊的でそこが神聖な場所であることを私達に知らしめた。「サーフボードをかたどったケースの中に祖父の遺灰を入れ、ここに流そう」とロビンは静かに言った。

ロビンキーガルが初めてサーフボードをシェープしたのは彼が16歳のときだった。彼はその時すでにデューイウェーバーのチームライダーであったが、授業中にこっそりと教科書に隠して読んでいた古いサーファーマガジンに「本物のサーファーは自分のボードは自分でシェープする」と読んだことをきっかけにガレージでシェープを始めた。そのボードはミッドレングスであったがデッキがドーム状に膨らんでしまったため、彼はそれを「エルキャメル」と名付けた。私はラクダ色をしたそのボードを今でも覚えている。それは決してラミネートに関しては素晴らしい出来ではなかったが、70年代前半のデザインからヒントを得たというそのデザインは、どんなサイズのボードでも2+1のフィンが主流であった当時においてはノスタルジックであり、十分に興味を引きつけるものであった。私は彼に「そのボード売ってくれよ」と言ったが、彼は「これは商品として売れるものではない。作品として完成されたものではないんだ」と言った。

その後の数年間、彼がどれだけのボードを削ったのかはわからない。彼はウェーバーからタイラーハジキャン、程なくして後に世界中のロングボードシーンを牽引することとなる次世代のスターたちが集結していたダノーのチームライダーとなった。各地で行われるコンテストで上位を独占し、夜な夜なパーティに明け暮れていた。その姿はロビンがダノーの元を去り、「クリーム」というブランドを立ち上げてからも続いていた。「クリームというのは一番という意味があるんだ。ケーキの上にもクリームがのっていて、それが一番美味いだろ」と言った。カラフルなウェットスーツを身に着け、斬新極まるアブストラクトカラーを施したボードでビーチを闊歩する姿はまさにロックスターさながらだった。

「クリーム」から最初にリリースされたのは「プレイボーイ」というモデルだ。サーフボードに奇妙なモデル名を付けることは1960年代からあったことなのでサーフィンの歴史に詳しいロビンにすれば当然のアイデアだった。「プレイボーイ」とはもちろん格好いいという意味を持つ。「プレイボーイ」はサザンカリフォルニアに集結し始めていた10代のサーファーたちをまたたく間に虜にした。

当時の「プレイボーイ」は比較的フルレールに近く、現在の彼のシェープよりもロッカーが強かった。細身で尖った印象のアウトラインだったがまだピッグ形状ではなく、ノーズライディングを意識し、サーフィン好きのキッズたちにとって格好良さと乗りやすさをアピールしたことが功を奏した。

自分の作ったボードがあっという間に売れていくことに気を良くしたロビンはその後「ドライバー」、そして現在のピッグムーブメントの火付け役となった「スムースオペレーター」をリリースした。

それ以前から彼の意識の中にはボード作りに対して確固たるコンセプトがあったはずだが、今にして思えば。「スムースオペレーター」の製作をきっかけにビーチのロックスターから真のシェーパーへの道を歩み始めたような気がする。

実際、後にロビンは当時について「あの頃はスターを演じている気分だった。常に周りを意識し本質を見失っていた」と語っている。

ロビンキーガルがボード作りのベース置くものはロングボードの進化だ。
ショートボード革命を境に興ったサーフボードの(彼流に言えば)屈折した進化を、改めて自分自身の手によって元の道筋に戻して進化させたいと考えている。「リ・エボリューション」彼がよく口にする言葉。再進化という意味だ。

彼が目指す「再進化」について説明する前に、まずロングボードについてカリフォルニアと日本ではその選択の意味合いが違っていることについて触れてみたい。

日本では一部のコアなロングボーダーを除いてロングボードを選択する理由の多くは、波が小さい、沖からテイクオフしたい、のんびりサーフィンしたいというロングボード特有の性能性質からのことだろう。だからそれらの問題を解決できるのであれば置き場や持ち運びに苦労するロングボードを特に選ぶ必要はないと言える。

しかしカリフォルニアでは理由が異なる。最も重要なことは1960年代後半に興ったショートボード革命を境にして、それ以前のものを選ぶか、以降のものを選ぶかという基準である。

それ以前のサーフボードは基本的にロングボードのみであり、形状の違いはあったとしてもロッカーが少なく、重く、エッジのない丸みを帯びたレール形状をしていた。ボードをトリムしてスピードをコントロールし、グライド感を楽しんでいた。
それ以降サーフボードの主流はショートボードとなりサーフィンの目的が長さにかかわらずショートボードのようにボードを動かすことになったため、ロッカーが強められ、ダウンレールになりエッジを施しテール側が絞り込まれ軽量化が図られた。そのためボード自体に推進力がないのでアップス&ダウンで加速するようになった。

これらに大きな違いがあるからこそその境は明確に存在する。カリフォルニアではロングボードを選ぶということは1968年以前のボード、すなわちクラシックを選ぶことを意味している。

形状や性能、コンセプトの相違は文化的な違いも生み出す。ウェットスーツやトランクス、車や音楽までにまで波及していることを見ればそれは明らかだ。言うなればショートボード革命以降のサーフボードを選択することは合理的な進化を選択することを意味し、ロングボードを選択することは原点に近いピュアなものを選ぶことを意味している。これは車、バイク、楽器や古着好きな方々がより古いものに興味を示すことと同じだ。テクノロジーの進化では味わえないピュアな響きやノスタルジーな感覚を重視している。

一般的にユーザーはサーフボードに様々な性能を求めるが、彼らは重視するのはそのボードの歴史的な背景とコンセプトであって、性能を犠牲にしてもそれらを飛び越えた形状の変化は行わない。古い車に最新のタイヤを装着したりしないように、ロングボードの古典的なフィーリングを重視する。だから彼らはそんなちょっと性能が劣るものに乗っていても楽しそうなのだ。カリフォルニアでは幼い子供にもその意識は浸透し引き継がれている。だからサーフィンを始めた子がシングルフィンロングボードに乗るということは必然だし、そのこだわりが格好いいことの原点だということを知っている。

彼はクリームを立ち上げた約1年後、商標権の問題でブランド名を「ガトヘロイ」に変更した。

日本語に訳すと「猫ヒーロー」となるその言葉は、彼の周囲においても疑問を投げかけるものが多かった。しかしそれこそ彼の望むところだった。「何それ?」とみんなが興味を持ってくれればいいと考えていた。

ブランド名をガトヘロイに移行するとポップで明るい色合いを特徴としていたクリームからシックなアースカラー、サンドカラーに変化させたように、シェープの面でも大転換を見せた。

それまではある程度乗りやすさを意識して作られていたボードであったが、それ以降はユーザー目線ではなく、彼のコンセプトを追求すること、すなわちサーフボードの再進化に邁進した。

彼は当時にさかのぼってそのボードの本来の目的を再確認し、その性能を極めることに力を注いだ。創り出されたボードを彼はトランジションと呼んだ。その意味はそれらのボードが後に興ったショートボード革命の影響を受けない、ロングボードの延長線上にある高性能のボードに行き着く中間の接続点であると考えているからだ。再進化によってトランジションを完成させることが彼の目的となっていった。

その後、スピード性とコントロール性を高めることに没頭し過ぎ、レールはナイフのように極限まで薄く研ぎ澄まされ、挙げ句の果てには「こんなボード、一体誰が乗るんだ」ということがカリフォルニアでもささやかれるようになった。

しかし彼はそんなことを意に介さずボードを作り続けた。ロビンはポイントノーズの高速ボードや進化を極めたピッグ系のボードを世に送り出した。多くのシェーパーがそれに追随したが流行は常に彼が発信した。

ピッグの後はスピードシェープ、グライダーのブームを巻き起こし、今年の春にはスピードシェープの時代背景を後年に移したパフォーマンス性能の高いボード「NEWキラー」をリリースした。その形状は現在のサーフシーンではほぼ見ない形状であるが、そのボードが新たな時代を切り開くことは間違いないだろう。彼がトランジションの完成に近づいてきたことを感じさせてくれる。

今年36歳を迎えるロビンは再進化の完成を間近に見据え、もう一つの彼のブランドクリームにおいてボードのシェープを大きく転換させた。今までよりユーザー目線に大きく舵を切った。特別なサーファーだけでなく女性も年配者もすべての人にもっと自分の作るサーフボードを楽しんで欲しいと考えるようになった。

そのことはボード作りにおいては突然の大きな変化であったが、彼の人間性においては以前からの延長線にある。彼は極薄のボードを作っているときでも常にユーザーを大切にしてきた。特に日本のユーザーに対しては特別な意識を持っている。「こんなボード一体誰が乗るんだ」と囁かれた頃、彼のボードに一番興味を示してくれたのは日本のユーザー達だった。ナイフのように薄くシェープされたボードに、まるで刀工のような精神性を感じてくれたのかもしれないが、そのことによって当時の彼の生活が支えられていたのは紛れもない事実だ。徐々にではあるが日本への郷愁と感謝が彼の心の中で敬意へと変わっていった。

花見から数日後、藤沢、大阪で懇親パーティを終えた私たちは次の目的地、宮崎に向かった。途中ロビンは何度も口にした。「若い頃は日本の文化に深い興味をもつことはなかった。

彼を育てた老夫妻は大変な親日家で日本風の建築様式を得意とする著名な建築家だった。ロビンが育った家の中は社寺に由来した造形物にあふれていた。その老夫妻は将来日本に住むことを夢見て、日本の伝統家屋の模型を飾っていた。ロビンはその模型の写真を私に見せ「彼らの意志をついで日本に家を買おうと思っているんだ」と言った。

彼は特に宮崎を気に入った。サーフィン可能な日数やロケーションの多様さにおいて日本随一の環境にあることはその理由の一つであるが、ロビンが気に入ったのは、現在彼が考えている木のボードのプロジェクトを推進することにおいて条件が整っていることだった。そしてフランス人の友人ギュエムがロビンに先んじて宮崎に古家を買う予定だということも彼の気持ちを後押しした。ウッドワークに詳しいギュエムとロビンが再びタッグを組み「メイドインジャパン」のサーフボードをカリフォルニアに輸出し、彼らに一泡吹かせようというのが彼の企みだ。

奇しくも彼の最大の理解者でもある中村清一郎氏はサーフィンのルーツを取材中のハワイでサーフボードのルーツが日本人の手によって作られたという史実に行き着いた。ロビンはその話に感銘を受け、日本への敬愛を深めた。

現在ロビンキーガルは日本へのフォーカスを強めているが、その地で彼の人生が完結するとは私は思っていない。彼は狩猟民族の子孫であり、旅人であり、芸術家であり、サーファーである。どれをとっても縛られることのない自由を好む。自由を求めたロビンキーガルの人生のシェーピングはこれからも当分止むことはないだろう。