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★「オンザボード」2013年9月号"the Basque & Rome"


「ちぇっ、波なんか無いじゃないか。こんなところまで連れてきやがって」と、溜まっていたものを爆発させるようにフランス人のホバンが言い出した。「嫌なら、帰れよ」と、追い詰められた状況にあったイタリア人のジョンジが対抗し、その日の争いは始まった。もともと同じラテン民族でありながらまったく異質の性格を持つこの二つの国の、しかも若いサーファーたちが10日間も仲良く行動を共にできるはずがない。そしてここはサルディーニャ。太陽が燦々と降り注ぐ地中海のど真ん中。この陽射しがそれぞれの鬱積していた心の中に火をつけたのかもしれない……。


「もうロビーとは呼ばないでくれ」と、突然言い出した。知り合ってはや13年。初めて会ったときから“ロビー”と呼んでいた。私だけではなく、周りのみんなもそう呼んでいた。「カリフォルニアの奴らが勝手にそう呼び始めたんだ。でも俺はもうカリフォルニアが嫌いだ。だからカリフォルニア流にロビーとは呼ばないでくれよ。俺の本当の名前はロバートでもロビーでもなくロビンだから」。唐突ではあったが理解はできた。典型的なカリフォルニアのサーファーであるロビンが本当にカリフォルニアを嫌いかどうかはさておいて、不幸な生い立ちの中で育ち、自分の血がどこから来ているのかを探り求めている現在の彼の心の中では“ロビン”という名前が唯一のアイデンティティなのだろう。だから私はロビンと呼ぶことに決めた。

 その日、私たちは波が無いのであり余る時間を持て余し、美しいビーチがあるという小さな入り江に海水浴に出かけた。そこで争いは始まった。いつもは決まってその中心にいたはずなのに、ロビンはそこにいなかった。ロビンは争いに加わらず、入り江を泳いで横切り、反対側にある10メートルはあろう高さの崖によじ登り、そして頭から飛び込んだ。「こっちへ来いよ。気持ちいいから」
10月4日にガトヘロイ・イタリアが主催する『ダイナミックエンデバー・ローマ』が開催された。それに先んじてガトヘロイ・バスクの本拠地、ビアリッツ近郊の街ビダールにいた私たちは空路ローマへ向かった。“私たち”とは、バスクでのロビンのパートナー、ギュエムとヤン、そしてビアリッツの個性的なアイドルサーファーであるチームライダーのホバン・ファルシャとプロスノーボーダーも兼ねるゴールデンだ。当のロビンはショーで展示されるボードと、その後に予定しているサーフトリップのために20本のボードを積み込み、1600 キロの陸路をおんぼろのバンで向かった。その相棒は写真家のペロさんで、こういう役回りが好きなようだ。一路1600キロの苦難を実感していない二人を横目に私は密かに自分の幸運を喜んだ。

 ローマでのショーは成功を収めた。ロングボードがまだ発展途上であるヨーロッパでは、カリフォルニアのスターサーファーであるロビンの人気は絶大だ。イタリアではサーフ人口が少ないこともあり、そのぶんイタリア全土からファンが駆けつけ、サインや写真をねだっていた。ショーはストリートミュージシャンの演奏から始まり、新しいボードのラインナップが飾られ、そしてサーフトリップの映像が流された。サーフィンのレベルに関係なく、みなロビンに視線を向けていた。彼はそれに応えるように一人一人に話しかけていた。一般的にカリフォルニアの若い世代のサーファーたちは海外で現地の人たちと交わるのが苦手だ。ロビンは以前からそのことについて辛口な発言をしていた。

「何のために来てるんだ。こっそり帰って内輪でパーティするならわざわざ行かなくてもいいだろ」
 だからロビンは各地のイベントでも決してそういったグループには加わらず、地元のグループに溶け込んでいく。そんなグローバルな視線がカテゴリーに縛られない自由な発想を生み出し、ボードの素材であるウレタンフォームのように年長者や地元の人の意見を吸収する。彼のボードが独創的でありながらもトラディショナルな要素を多分に含んでいる理由はそこにあることはたやすく想像できる。とにかく、イタリアのサーファーたちは喜んでいた。

 ショーが終わり、私たちはどこに行くべきかを話し合った。ヨーロッパの中心に位置するローマは欧州圏内にとどまらずアフリカへのアクセスも容易で、そのため目的地の選択肢はあり余るほどであった。一方、この時点ですでにフランスチームの面々は考えていた。 「地中海に波なんてあるわけないだろ。とっとと地元に帰ってスペイン方面に行こうぜ」。 対するイタリアチームは「せっかくだからサルディーニャに行こう。飯も美味いし、自然はきれいだし、1年のうち280日くらいは波があるんだ」、 と言ってサーフィン雑誌に掲載されているサルディーニャ島の波の写真を見せた。“飯も美味いし”とはいかにもイタリア人らしいが、ロビンが惹きつけられた理由はもしかしたらそこにあったのかもしれない。「サルディーニャに行こう」、とロビンが決めた。なにしろこの4か国10人編成のチームのボスはロビンだ。フランスチームの不穏な空気をよそに、ロビンの決断に従い私たちはサルディーニャへ向かうことになった。

 ローマ近郊のチビタベッキア港へは市街から車で約1時間。港は地中海沿岸の各国、アフリカに向かうフェリー、巨大客船の拠点である。新島行の東海汽船を思い浮かべていた私たちはその船の巨大さに度肝を抜かれた。夜の帳が私たちのはやる気持を目的の地サルディーニャへと導きつつあった。

 しかしながら期待する波は3日後と聞いていたため、一同はローマでの遊び疲れた体をのんびりと癒していた。そして3日が過ぎ、4日が過ぎた。いよいよ前述の争いは始まった。その争いに加わらなかったロビンは夜になって私とペロさんの部屋まで来て言った。
「これこそ本当のサーフトリップだ。インターネットが始まる前、いや天気予報もままならなかった1960年代、サーファーたちは自分たちの感覚を信じて旅立ったんだ。必ず波が当たるわけじゃない。でも、訪れた地を満喫しながら旅を続けたんだ。良い波に乗りたいだけならカリフォルニアやフランスに留まっていればよかったんだ。でも、サーフトリップにはそれだけじゃない魅力があるんだ。けんかやトラブルも含めてね。後になれば楽しい思い出さ」、と言いながら様々な話を続けた。新しいモデルとフィンについて、ロッカーがロングボードに及ぼした影響、オーストラリアでボブ・マクタビッシュに会ったときの話などをして、その後はいつものようにカリフォルニアに対する嫌悪感を口にした。「今のカリフォルニアでは親の世代が乗っていたボードに誰も乗らないんだ。カリフォルニアには偉大なレジェンドたちが残したサーフボードという財産がある。それなのに若い奴らはその本質を見ようとせず自分たちでボードを作ってしまう。だからシングルフィンが流行っている今はどこを見てもクラシックのピッグばかりさ。レールをちょっとピンチにして、デカいフィンを付けて……。それじゃただの物まねにさえならない。大事なのは表面的な形でなく、フォイルのダイナミズムが生み出すスピードなんだ。昔のレジェンドたちは独自にそれを追求していた。そこに辿り着くストーリーも欠かせない。今のカリフォルニアにはそんなエネルギーを持っている奴がいないんだよ」

 確かに、良くも悪くもエネルギーを発散するロビンがカリフォルニアにいたときはもっと活気があったような気がする。アレックス、ピックル、ジャレッドたちはサーフィンだけでなくビーチの上でも主役だった。ライブをし、絵を描き、そしてパーティに明け暮れた。それ以下の世代の者たちはそれに倣うかのように奔放に暮らしていた。

 以前なら「お前だって若いくせに」「お前だって自分でボード作ってるじゃないか」と思っていたが、今では彼の言葉がよくわかる。なぜならロビンにはストーリーがある。彼のボードに対する姿勢はクレイジーなほどに真剣だ。ショートボード・レボリューションについて考えれば、ナット・ヤングやボブ・マクタビッシュに会いに行く。作ったボードを持ってアフリカに渡り最高の波でテストを繰り返す。実生活は破綻し、毎夜くつろぐリビングルームがなくても、ボードを作り波に乗り続ける。彼のボードには好き嫌いがあるかもしれないが、そのストリーリーはまさにリアルだ。気がつけばロビンも30歳だ。確かにもう若くない。

 いよいよその日は訪れた。今回のトリップのオーガナイザーであり、イタリアサーフィン界の重鎮ジェンナーロが早朝からタブレットPCを片手に叫んでいた。「おい、みんな見ろよ。波高予想は真っ赤だぜ!。」 私たちはすぐさまボードを積み込み海に向かった。

 サルディーニャ中部の西海岸、大きく湾曲した入り江の右のリーフから左手前のビーチまで約300メートル。完璧なライトブレイクが現れた。疑心に溢れていたフランスチームの面々も「地中海には波はない」と言っていたことを忘れたように次々に飛び込んでいった。サイズは沖のセットで肩くらい。うまくつなげば完璧なシェイプのビーチブレイクまで乗り継げる。パワーも十分にある。ロビンは後半インサイドのビーチブレイクを攻めていた。 「俺は退屈で長い波より、クイックモーメントが好きなんだ。一瞬の間の速いパフォーマンスが好きなんだ」、 と満足そうに言った。全員が鬱憤を晴らすように5時間を超えて海に入った。ようやく上がってくるとフランス人たちも口々に「サルディーニャ最高!」と叫んだ。

 その夜、私たちはサルディーニャ最大の街、南東部にあるカリアリに向かった。目的は現地サーフショップのオープニングパーティ。そこにローマのショーで展示したボードを届けようという計らいだ。イタリア人が1時間ほどで着くと言えば、それはゆうに3時間を超えることを意味する。しかし私たちはご機嫌だった。とうとう波を当てていた。地元の美味しい料理も堪能した。そして道中の山の中に埋もれる古代や中世の史跡の素晴らしさに感動していた。突然ロビンが言った。 「サルディーニャは古代ローマ時代以前に東の海から来た民族によって開かれたんだ」と。彼にとって“東から”というのは重要なことだ。ロビンはその生い立ちがゆえに自分のルーツを探している。現在、自分のずっと前の世代は“東の方から来た”と信じている。 「サルディーニャは波も豊富にあることがわかった。それに、俺にとっても重要な土地であることがわかった」と、彼は小さく口にした。

 カリアリのサーフショップ『SWELL』のフィリッポは感激していた。まさかこんな遠くまでロビンがフランス人と日本人を伴って来るとは思わなかったらしい。ロビンは各所で辛辣な言葉を吐き、周囲に煙たがられるときもあったが今は違う。彼が現れることで喜ぶ人たちがいる。ロビンの本質と創造性は人々を魅了する。その流れはカリフォルニアから日本、オーストラリアに渡り、遥かヨーロッパの地でも開花している。別れの際、フィリッポはロビンに地元産のナイフを贈った。ヨーロッパでナイフを贈ることは、強い信頼と友情を意味する。帰り道、その意味を知り、ロビンは喜んでいた。

 サルディーニャの滞在もあと1日と迫ったとき、ジョンジが言った。「ギリシャからボードが欲しいってメールが来たんだけど」。 すかさずロビンが言った。 「一緒にアテネにボードを届けに行かないか」。それから3日後、ロビン、中村氏、私の3人はロングボードとスーツケースを抱えてアクロポリスの丘を登った。その頂上で、彼の眼は更に東を向いていた。そしてポケットの中には、アテネの新しい友のためにナイフを携えていた。