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オンザボード 2014年11月29日発売 #94号

勝者を宣言するカシアミーダーがジャレッドの左手を高らかに上げた。衝撃的なパフォーマンスだった。世界レベルの演技に歓声は鳴り止まなかった。驚いたことに優勝は間違いなしと思われていたにもかかわらず一番喜んでいたのはジャレッド・メル本人だった。

遡ること3週間。夕方5時、私のパソコンにジョージからメールが届いた。ジョージとはロビン・キーガル、ダレン・ユーデリーとともにウェーバーサーフチームに属していた古くからの友人だ。友人といっても24歳も年下だが、カリフォルニアでは友人関係に年齢は不問だ。現在は大手サーフブランドのプロモーション映像などを手がけている。私はメールの内容を見ながら思った。「なぜっ」 その日、私は7時に仕事を終えたあと羽田空港に迎えに行くことになっていた。夜10時にジャレッド、ダノー、そしてジョージの3人が羽田空港に到着すると聞いていた。元々今回の来日プロモーションはジャレッドに呼びかけたものだった。2010年の来日時、機内で10数杯のウィスキーを飲んで成田に降り立ったジャレッドは、私が迎えに行ったときにはすでに酩酊状態で、その状態は帰国の時まで回復することはなかった。同行したトロイたちがすばらしいパフォーマンスを披露したのとは対照的に、ジャレッドは、〝サーフィンは上手いけどカリフォルニアの典型的なだめな奴〟という印象を与えられることになった。そのジャレッドに名誉挽回の機会を与えたかった。ジャレッドはすでにアレックスやロビン、タイラー・ウォーレンと並び世界のトップに君臨するスターである。その実力はまさに世界レベルでジョエル主催の「ダクトテープ」ではもちろんフル出場の特別待遇だ。にもかかわらず、彼の採点不能なほどの自由すぎるサーフィンによって未だ勝利に手が届いていなかった。そこでジャレッドの異次元サーフィンを日本で披露したいと思い声をかけた。そこに割り込んできたのがダノー。「それなら俺も行かなきゃ」と。私としては来日する時間があるなら3年以上待っているお客様のサーフボードを作って欲しいところだったが、すでに本人は南国の楽園と自身のライブコンサートに思いを馳せているようだった。そしてジョージ。ジョージはダノーのライダーではないので本来、来る必要はなかった。しかし「ジョージはDJの天才なんだ」と突拍子もない理由をジャレッドに説明された。それこそ余計に関係ない話ではあったが「とにかく日本ではダノーのボードに乗るから」ということで私はジョージの来日を仕方なく承諾した。結局ジョージは母親のガレージからボードを持ち出し、帰国前にそれを私に売りつけて笑っていた。ジョージはそんな男だった。とにかくそのジョージから午後5時にメールが届いた。出発が遅れているのかと思いきや、驚くことにダノーと二人で成田空港に着いたという。繰り返すが到着は10時に羽田と聞いていた。しかもジャレッドはいない。私は「7時までは仕事だから藤沢まで電車で来てくれないか」と返した。が、すかさず「無理だよ。ボードだけじゃなくてDJ用のレコードが大量にあるんだ」 私はジョージの来日を承諾したことに若干後悔しながらも仕方なく成田に迎えに行くことにした。成田空港に着くなり「ジャレッドに手配させたからだよ。俺たちは出発までどの便に乗るかも知らなかったんだ」とジョージは言った。結局ジャレッドは当初の予定通り羽田空港に10時に到着した。私はあきれてはいたが驚きはしなかった。アレックス・ノストだって1日遅れてきたこともあるし、空港に送って行ったらすでに飛行機は出発していたとか、パスポートを忘れてきたなんてことは一度や二度ではない。カリフォルニアのサーファーと行動を共にするということにこんなことはつき物だ。日本人なら海外に行くのに1日遅れたりするはずはない。空港に着くまで自分が乗る飛行機の便名を知らないなんてことはありえない。とにかく最年長なのに何もできないダノーを加えカリフォルニアサーファーの日本トリップは始まった。


翌日、私たちはサイズダウン傾向にあった湘南を離れ一路、奄美大島に向かった。一説によると奄美大島は年間300日以上グッドウェイブらしい。ビーチとリーフが島を取り囲みあらゆる方向のうねりをキャッチする。その情報に胸を躍らせながら彼等は機内で大量の缶ビールを空けた。そして到着後も夕闇に沈みつつある美しい海岸線を眺め、地元料理に舌鼓を打ちながら再び地元の焼酎に手を伸ばすのであった。これでは前回のジャレッドの二の前ではないかという心配をよそに・・・

奄美大島でサーファー御用達の民宿「グリーンヒル」を営む緑さんが島の海岸線に沿って車を走らせた。亜熱帯特有のやわらかく暖かい風はサトウキビ畑を揺らし、無人の白い砂浜とリーフに囲まれた入り江は透明な海水に満たされていた。車とすれ違うことは稀で、人を見かけることはほとんどない。東京からたった2時間半とはとても思えない理想郷だ。最初に選んだリーフポイントは腰サイズの波だったがジャレッドのサーフィンは際立っていた。たとえば彼はこんなライディングをする。ジャレッドはレギュラーフッターであるがテイクオフと同時に左足を軸に体を反時計回りに回転させスイッチスタンスを始める。そして左足を右足の後ろに回しながらバッククロスステップでノーズに足をかける。そして右足を左足の前に交差しながらボードのテール方向に歩く。またレギュラースタンスでフローターをしながら波のトップで体を時計回りに回転させながらスタンスをスイッチしてリエントリーを完成させるという離れ業を得意としている。文字で表わしていると混乱してしまうが実際のライディングを見たらそれ以上だ。まさに予想不可能のライディング。小波のコンディションだったが小波でも技が冴えるジャレッドを連れてきてよかったと安堵した。

ジャレッドは幼い頃から地元のダノーが作るボードに乗っている。しかもボードは支給されているのではなく買っているのだという。ジャレッドほどであればボードを無料で手に入れることは容易だ。おそらくロビンであってもジャレッドなら無償で提供するだろう。だからジャレッドにとってダノーのボードはお金を払ってでも乗りたいボードということになる。ダノーはカリフォルニアのローカルポイント、ブラッキーズを拠点にするカスタムメイドのサーフボードシェーパーだ。ホットロッドカルチャーや自らが演奏するスワンプと呼ばれる音楽同様、古きよき時代を背景にしたクラフトマンシップ溢れるボードを作っている。その人気は絶大でアレックス、ロビン、コーディ・シンプキンスを排出し、現在もジャレッドのほかトロイ、エリン・アシュリーを擁するカリフォルニアきってのトレンドリーダーだ。自分の店も持たず、どこのサーフショップでも販売していないにもかかわらずこのように続々と人気スターを輩出するブランドは他にない。ただしクラフトマンシップが過ぎてボード作りに延々と時間がかかるのでオーダーしたのにボードを手に入れられない不満者をたくさん生み出してしまっている。ともかくジャレッドはそんなダノーが作る高圧縮フォームと8オンスのボランクロスで作られた重量級のロングボードを操る天才だ。クラシックとは何か?シングルフィンロングボードとは何かということを知っている。ジャレッドはお金や流行には流されないダノーや地元ブラッキーズのロングボード文化が好きなのだ。しかしそんな彼もダノーの怒りを買ったことがある。彼は2年前、オーストラリアトリップ用と言って2本のボードを作ってもらい、すぐに売りさばいて現金を手に入れオーストラリアに渡った。返済するお金もなかったため約2年もの間ダノーに顔を合わせることができなかった。今回ジャレッドが持参したボードのコンディションがひどかったのはそのためだ。しかしジャレッドはダノーに許しを請いにカリフォルニアに戻った。未だお金の返済は完了していないが、ダノーは南の楽園とライブのために一時的にジャレッドを許し一緒に来日した。そんな原因も理由もいかにもカリフォルニア的だ。そしてもう一人典型的なカリフォルニアサーフカルチャーを背負っている男がいる。ジョージだ。人の言うことを聞かず、物を紛失し、人のせいにすることを得意とする男だ。その男が朝早く撮影に出発するために集まった駐車場で叫んでいた。「俺のカメラはどこだ。座席の上に置いていたはずだ。」座席とは緑さんの9人乗りのワゴンのことだ。昨夜からその座席の上にカメラ一式を置き放しにしていたらしい。この話には布石があった。前日の飛行機の乗る前にもジョージはチケットを紛失していた。私はそれを見ながら「それにしてもカリフォルニアのサーファーっていうのは本当にいつも物を探しているよな。なくなったとか、取られたとか言い出し、パニック状態で周りの人に八つ当たりしているのを俺は何度も見たことがあるよ。それが原因で俺はロビンと一緒にカメラの充電器を探しに倉庫に行った時には7人の特殊部隊の警官に射殺されそうになったんだから。本当にカリフォルニアのサーファーってやつは・・・」と言っていた。ジョージは「畜生、誰かに取られた」と言い出した。あきれたダノーが「置き放しにしたお前が悪い。もう一回部屋を確認して来い」と言い、ジョージはしぶしぶと階段を上がっていった。そして私たちは発見した。ワゴンの座席の後ろにしっかりとバッグごとカメラ一式乗っていた。ジョージとはそんなやつだった。
カリフォルニア的といえばこんなこともあった。グリーンヒルでは私は彼等3人と部屋を共にしていた。といってもロフト状の作りで彼等3人は下の階にベッドを並べ、私は上の階で一人布団を敷いて寝ていた。最終的にこの作りによって私は命拾いした。早朝まだ目の覚めやらぬ彼等に気を使いながらロフトの階段をゆっくりと下りるとそこは信じられない状態であった。海外に行ったことがある方なら経験があると思うが海外のスーパーなどは強烈に冷房が効いている。日本人では凍えそうと思うその環境の中でも彼等はノースリーブだ。そんな状況だった。窓は網戸ではなく完全に締め切られ、エアコンは14度のフルパワー。それでも彼等は暑いと感じているようでトランクス1枚で横たわっていた。彼等は繊細さのかけらも持ち合わせていない。まさに獣だ。私は凍えながら彼等と違う人種であることを実感して再び布団にもぐりこむしかなかった。


結局、最後まで期待通りの波には出会うことはなかった。波に当たらなかったのは誰のせいかという話はつきものだがサーフトリップとはそんなものだと同行した誰もが経験値として納得している。それでも旅が楽しいのは日常から開放されるからに他ならないだろう。そして楽しかった思い出はいい波のことだけでなく、誰と一緒に行ったかに尽きるだろう。私たちはジョージのだらしのなさにあきれてはいたがそれにもましてこの旅を満喫した。それに奄美大島がポテンシャルの高いサーフアイランドであること、そして身近でありながら多忙な日常生活から解放してくれる極上の楽園であることを知ったことは大きな収穫だった。

奄美大島から帰った翌日の主役はダノーだった。渋谷のライブ会場は演奏の2時間前には大勢の人が詰めかけていた。まず前座のジョージとジャレッドのDJが会場を盛り上げた。そして本場ニューオーリンズの舞台経験もあるダノーの演奏は本当に素晴らしかった。演奏したのはスワンプと呼ばれるアメリカ南部の泥臭いロックの一種で、ギター、ブルースハープ、ドラムを一人三役で演奏した。ダノーの歌声と演奏は観客のソウルを震わせただろう。ダノーにとってはスワンプもホットロッドもサーフボードも一体だ。ひとつのディテールだけではなく生活のすべてを本物に染めている。彼は観衆に向かって叫んだ「新しい友達に乾杯!すぐに戻ってくるぜ!サンキュー!」

新妻の待つバリに向かうジャレッドを羽田で見送った後、ダノーとジョージと私は成田空港にいた。そしてジョージが言った。「ジャレッドは近くの羽田で俺達は遠い成田。それにあいつはバリまで3本のサーフボードを無料で持ち帰った。それなのに俺はボードケースを持ち帰るだけなのに200ドルも払わなければならないなんて。今度は俺がチケットの手配をするよ・・・」 私は「お前に次のチャンスはない」と言いそうになる口を押さえた。

2週間後、ジャレッドは再び羽田空港に降り立った。傍らには新妻オズレムを伴っていた。「私のダンナはとっても頼りがいがあるのよ。飛行機の手配も旅のプランも完璧よ。」その横に立つジャレッドは頼りがいのあるたくましい男に変身していた。そしてJPSA主催の「スタイルマスターズ」静波海岸を埋め尽くした観衆に想像を超える衝撃的なパフォーマンスを見せつけた。彼は新しい人生のスタートを自ら華々しく演出し、その日の勝利をオズレムに捧げた。成長したジャレッドの表情にはすでにカリフォルニアキッズの面影はなかった。