ある夏の日のよしなしごと

どうせたいした距離を歩くわけでもないのに、暑いのが煩わしい。今電気が途絶えて、冷房設備が終わったら、確実に死ぬんだろうなと思う。絶望死。


本当にここから1ヶ月間電気がなくなったら、生活できないな。
それって生物としてすでにだめになっているのでは?


少し前、夏を愛してやまない友人に、「夏は暑いから嫌いだ」という話をした。(酷い話だ……。)転じて、暑くなければ嫌いではない。そうとも言えるかも。夏のことを考えるとき、その憧憬はほとんど原風景に近い。すてきなことだ。
そうしたら、「じゃあそれはもうほとんど夏を好きなのと同じだよ」と諭され、わたしは夏が好きだということになった。

ちなみに夏は暑いから嫌いです。
でも、なくならないでね。



レモネードを飲んだ。
磨りガラスを爪で掻いたような、クエン酸の味がした。それはそれでいい。
そういえば一昨日もカフェでレモネードを飲んでいたなと思い出した。そちらは蜂蜜の甘さがふわりとしていた。
ここ数日が、あまりにもレモネード日和である。



ヨルシカが「忘れてください」という曲を公開した。
当たり前に、自分に向けられた言葉ではないのだけど、なんだか突き放された心地がして愕然とした。勝手なことだ。

箱の中の小さい家の、二人で並んだキッチンの小窓のカーテンの先の思い出の庭に、春の日差しを一つ埋めて、たまには少しの水をやって、小さな枇杷が生ったとき忘れてください

「忘れてください」


かつて「君が後生抱えて生きてくような思い出になりたい」と歌っていたのとは矛盾するようで、でもたぶん根幹は一緒なんだろうなと思う。

北原白秋の短歌が引用されている。ミーハーだから、白秋の詩を読もうと思う。

バンドサウンドについてはまだ書けることがない。曲名で躓いている。




選書をする機会があって、河野裕の『いなくなれ、群青』をもう一度読み直した。中学生の時に買って、読むのは高校生以来だろうか。

このシリーズの中で一番に印象深いのは、「七草」という男子高校生と「堀」という女子高校生との対話である。
2人の距離感というか、他者との線引きの仕方と寄り添い方がとても心地よい。以前に読んでから時間が経って、その心地よさは美化されたものなんじゃないかと少し怖かったけれど、今でも新鮮にきらめいてみえた。

といっても2人の会話はあまり多くない。2人はお互いにとても誠実で、とても愛しく回りくどいコミュニケーションを取る。


わたしが鮮明に大事に記憶しているのは、シリーズ第5巻の出来事。 ようやく2人が普通に会話をするようになった頃のことだ。

「夕食は、なにを食べた?」
と僕は尋ねる。
「カレー。昨日と同じ」
と堀は答える。
「沢山作ったんだ」
「うん」
「玉ねぎを焦がさなかった?」
「上手くできたよ。新しいお鍋を買ったから」
「優秀な、焦げにくい鍋?」
「そうでもない。でも、可愛い」
それはよかった、と僕は答える。

河野裕『夜空の呪いに色はない』

新しく可愛いらしい鍋を使うから、焦がさないように気をつける。それも愛らしい鍋の立派な機能のひとつなのだという。
「七草」は「きっと鍋に限らず、世の中のあらゆる事柄には、説明書には書きづらい具体的な機能がたくさんあるのだろう」と考える。
これってすごく大事なことだ。だけれど、実際にはほとんど見過ごしてきてしまったようにも思う。


頭の中で、その赤くて薄いホーローの鍋を思い浮かべる。コンロにかけて、オレンジ色の照明を灯す。白い鍋底を焦がさないように、木べらで玉ねぎを丁寧に炒めて、やがて飴色になるまでじっくりと面倒を見るのだ。

そんな景色をこれまでに何度も思い出してきたのだけど、それが一体どういう時々であったのか、今となってはもうわからないかもしれない。

感想文は苦手なので、おしまい! 変な着地点。



夏休みになるので、8月は夢日記をちゃんとつけようと思う。できたら。やると決めたことは30日間やってみるといいよという話を聞いたから、前向きな気持ちではあるよ!



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