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「セロ弾き群青」


n-buna 2ndアルバム「月を歩いている」より


 春の夜の生温い風を感じたから、そしてちょうど週末にヨルシカLIVE2024「月と猫のダンス」があるから、この曲の話をしようと思う。



 ぜひ、聴いてから読んでいただけたら。





 チェロの音が優しい。




 題名にもあるように、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」からインスパイアを受けた作品である。

 ただ、この曲の主人公は、もうセロを弾くことを辞めてしまっているのだった。

部屋の隅に立てかけられた
セロは今じゃ物干し竿の代わりだ
捨てないだけだ


 捨てないだけだ、というのは、もちろんセロが物干し竿としてら優秀だからというわけではない。



 主人公がセロを弾かなくなったのか、あるいは弾けなくなってしまったのかはわからないが、どちらにしても主人公はセロを弾くことを辞めてしまったので、もうセロを使うこともない。



 セロなんて捨てるのが面倒くさいからおいてやってるだけだ、みたいな言葉を使って、たしかに実際にそういう側面もあるのかもしれない。
 けれど、仕事が無いなら、セロを売って少しでも生活の足しにするのが普通だ。



 セロを捨てないのは、捨てられないからだ。
 主人公はセロを弾いてきた思い出を捨てることができない。

 そして、いつか再びセロを弾く機会が訪れることを、主人公は心のどこかで、もしかしたら自覚すらしていないところで、期待しているのだと思う。

ある夜街を歩いてたら
スリに遭って困惑した
盗まれたのは生活費だけじゃない
人間の心がなくなった

道行く人の胸ぐらを掴んだ
誰でもいいから返せと叫んだ
返してくれよ
優しさってのを

 生活費をすられただけではなく、人の心も盗まれたと。近頃のスリは心までも盗んでいくとは、確かに困惑する。(そうではない)


 主人公、どうしようもなく惨めで孤独である。
 ただ、その孤独はあまり他人事に思えないもので、なんとなく寄り添っていたい気持ちにさせられる。


 スリが自分の心を盗んでいったことを知っているのに、道行く人の胸ぐらを掴んでまで「返せ」と叫ぶのは、道行く人々からすればとても理不尽だ。酷すぎて滑稽ですらある。

 もちろん、優しさとは物体ではないから、スリを捕まえれば戻ってくるようなものでもない。
 もし、道行く人が主人公に手を差し伸べて、話を聞いて、温かいご飯を食べさせてあげたのなら、きっと彼に人の心は戻ってきたのだろうと思う。


 切望しても、彼にはそんなことが一度すらも起こらなかった。道行く人は、号哭する主人公から目を背けるだけだったのだ。


 原作の「ゴーシュ」は、夜な夜な彼のもとを訪れる動物たちとのやりとりを通して、セロの腕前を上達させていった。そして、最後には楽団の皆から認められるのだった。

 それに対して、対称的なこちらの主人公の孤独さは、まるで動物たちとの出会いがなかった「ゴーシュ」の行く末をみるかのようである。


前を向かず歩かず
止まっていることがいけませんか
いつまでたって褪せない思い出を
愛したままじゃ駄目ですか
春を歩いて街を歩いて
夜を歩いてやっとわかったんだ

あぁ もう一度だけ
もう一度だけ

「セロが弾きたい」

 「セロが弾きたい」は、n-bunaさんの声にエフェクトが掛けられたもので、ひときわ人間味がある。


 思い出に縋りたい主人公は、悩んだ末に「セロが弾きたい」というひとつの欲求に辿り着いた。
 これは、「いつまでだって褪せない思い出を愛したままじゃだめですか」という問いへの回答である。



 すなわち、捨てられない思い出を愛したままでいる自分を肯定するのだ。


 なんと愛おしいのだろうか。





 で、セロはあるんだから弾けばええやん笑、と一瞬思うが、そうではない。

 ここで主人公がやっと、もう一度だけセロが弾きたい、と言うからには、主人公はもう二度とセロを弾けない状況にあるのではないか、ということを予感させるのである。


春が咲いている
胸が泣いている
汽車に乗る僕は往く
何か言う君が見えなくなる

 主人公の心象風景なのだろうか、はじめて美しい景色を歌っている。


 「汽車」という単語に注目すれば、自ずと宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が浮かんでくるだろう。

 銀河鉄道は、死にゆく人が乗り込む列車だ。



 おそらく、主人公はもう死んでしまうのだと思う。



 「君が見えなくなる」は、汽車が遠のいて見えなくなることと同時に、視力を失っていくことを示しているように思われる。


 「君」とは誰だろう。「君」の存在は主人公の孤独を癒してはくれなかったのだろうか。

セロを弾いている
あの頃に戻ったみたいに
部屋が泣いている

セロを弾いている
思い出にこびりついた
雲が青く揺れる

セロを弾いている


 主人公にとってセロを再び弾くことは、思い出に縋ることだ。

 セロを弾くだけのように思われることは決して簡単ではない。自分の才能がないことに滅多打ちにされ、右耳が聞こえなくなったことで音楽生活も絶たれ、そういったトラウマにより主人公は人間ですらなくなっていた。いわば、セロをきっかけにして、絶望の淵においやられていたのである。

 だからこそ、「セロが弾きたい」という言葉は、歩いて歩き果ててようやく出てきたのだ。


 最期に見るこの風景の中で、彼はセロを弾いている。


 それはきっと、どうしてもセロという思い出を愛せずにはいられない自分を、それでもいいよ、と認められたということなのだろうと思う。




 ということで、どうしようもなく孤独な男の歌がとても好きだという話でございました。

 「月と猫のダンス」も形は違えど「セロ弾きのゴーシュ」を踏襲した作品のようですので、その繋がりでこの機会にこの楽曲を紹介しました。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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