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社会人と「鈍感力」

私が社会に出てから強く感じたのが、社会人はおしなべて鈍感力を身に付けており、それが社会を生き抜くために大変に重要であるということだ。

そもそも、鈍感力とはなんだろう。
一般的に、「自分がストレスに感じることやダメージになりそうな情報を、ため込まずにうまく受け流す力」などと言われている。

しかし、私の考える「鈍感力」は一般に言われる定義とは少し異なる。

私の考える「鈍感力」とは、
①「相手の感情を汲み過ぎないこと」
②「”大多数の人間に共通する感情や話題”を重視し、それに共感することを厭わないこと」

上記2点を違和感なく行える力のことである。

「相手の感情を汲み過ぎないこと」

例えば営業をしていて、お客さまが特段必要でないと感じている商品を売らなければならないとしよう。当然、お客さまは現時点で不要と感じている訳だから、こちらとしてはなんとか違和感なく話を聞いてもらい、欲しいと感じて貰いたい。そのためにあの手この手でアプローチをするだろう。

しかし、ここでお客さまの感情に入れ込みすぎて(それが自分の妄想に過ぎない可能性は否定できないが)、「こんな話、きっと嫌だろうなあ…」「少なくとも今いらないって言ってるんだから、これ以上話すのは迷惑千万だろう」などと考えてしまえば、それ以上の営業活動は心底辛いものになってしまう。他人が嫌がることを積極的に推し進められる人間は多くはない。

これを避けるためには、己の意識を”相手の不快な気持ち”にフォーカスすることをやめ、”どのようなアプローチをかければお客さまが商品を買ってくれるか”、という技術的な面にフォーカスすることが必要になる。

もしくは、「これを買ってもらうということは、お客さまにとって大変利になることなのだ。お客さまは今はそれに気づいていないだけだ。何とか自分が教えて差し上げねばならない」という意識改革が必要だろう。

或いは営業活動そのものをゲームだと捉え直してもいいかもしれない。今自分がやっていることは如何に高い成績を出せるかのゲームであり、眼の前のお客さまが駄目だとしてそれがなんだ、また新たにサイコロを振ればいいことなのだ…という風に。

いずれにしても、「相手の不快な感情」から目を逸らすのが必要であること違いはない。相手の感情を尊重し、少しでも相手が嫌がることをやめる…だと仕事にならない。そもそも他人がやりたくないことを代行でやるからお金が貰えるのである。仕事を進めるためには、このような「相手の感情を汲み過ぎず、(敢えて)鈍感であること」が必須なように、私には思える。


「”大多数の人間に共通する感情や話題”を重視し、それに共感することを厭わないこと」

例えば、職場や飲み会で親睦を深める機会があったとしよう。
コミュニケーションを積極的に取ることは、楽しい社会人生活と沿革な業務の遂行には欠かせない。
そういった大多数の人間と話をする時には、”皆の共通項”を探すことが最重要任務となる。一部しか知らない話をすると、疎外感を味わわせたり盛り上がりに欠けたりしてよろしくないからである。
最近職場で起こったハプニング、意外な人間関係(恋愛模様など)、誰かの愚痴…。こういった場面での「共通の話題」は、総じてゴシップ的になりがちである。さらに、話題に対して期待される反応も画一的であることが殆どだ。
例えば、同期の○○さんと○○さんが付き合っていたらしい、などの話では、他人の恋愛模様に毛ほどの興味がなくとも「え~ほんと?いつからなの?」などとさも興味があるように反応し詳細を聞きたがる必要があるし、オンライン研修を如何にしてサボるか、などの話題になった際には積極的に己のサボりエピソードを面白おかしく脚色して語ることが求められる。実際のところはサボるという行為に対して批判的であったとしてもだ。

これもある意味当然のことかもしれない。
こういった場面におけるコミュニケーションでは同じ話題で盛り上がるという行為そのものが大切なのであって、個別具体的な個性のある回答は求められていないからだ。一般的ではない自分の考えや意見を話すのは、個人的に親しい友人と会ったときでよい。

上記のように、一般論、またはその場の大多数の意見に共感(自分の本心がどうあれ)することが抵抗なくできて、そのような自分に違和感を持たない、ある意味適度に鈍感な人間であることが、社会人には必要とされるのではないだろうか。


上記のような力を持ち合わせない人間も多いだろう。
実際、私の学生時代の友人は殆どが”持ち合わせない”側の人間であった。
感情の機微に敏感で、少しでも他人が嫌がる可能性のあることを避ける。
己の信念を持ち、それに反する言動を好まない。
彼女たちの多くは社会人になり、社会に馴染めず苦しみ、退職や休職していった。社会人であり続けられている子でも、どこかいつも窮屈そうに、身を屈めてひっそりと生きている。
彼女たちは、学生時代は大変優秀な生徒であったのにも関わらず。

学生時代よしとされていたものが、ひっくり返される感覚。
これに耐えきれない者は、自然と社会からドロップアウトしていく。
私としては、彼女たちのような善良な人間が楽しい社会人生活を送れないことを悲しく思う。でも、それが社会というものなのだ。
そう思って日々過ごしている。


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