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人は不幸を直視できない~みかわ絵子『忘却バッテリー』~

久しぶりに配信が楽しみなアニメがあります。
みかわ絵子さんの野球漫画『忘却バッテリー』のアニメ化。
私はいつもdアニメストア ニコニコ支店か、そこになかったらPrime Videoでアニメを観ています。
私が一番漫画を読んでいたのは中学生時代。
その頃連載されていたあだち充の『H2』が一番好きな漫画でした。
この『忘却バッテリー』、その『H2』に雰囲気が似ている気がします。
それが私がこのアニメに惹かれている要因かもしれません。
この二つの作品、何が似ているのか?
『H2』延いてはあだち充作品に共通しているのは、不幸を不幸として描かないことです。
『H2』では主人公の家に不幸が襲いますが、その主人公である国見比呂はわかりやすく嘆き悲しんだり、塞ぎ込んだりしません。あくまでそういうものとは距離を取ります。(それは幸福とも距離を取ることになるのですが……)
また、『タッチ』や『KATSU!』、『クロスゲーム』でも同様です。
あだち充作品の主人公は、少年漫画にありがちな「熱血」とは距離を取ります。それはあくまで距離を取るのであって、馬鹿にする訳ではありません。
昔に流行った漫画は基本的にネガティブなことを許しません。
例えば、『ドラゴンボール』・『キャプテン翼』・『キン肉マン』などはネガティブの要素を排しています。
あるいは『ワンピース』はネガティブになる仲間を主人公のルフィが叱責することでポジティブに持って行きます。
そういう意味では、あだち充のネガティブの描き方は、流行漫画の法則を遵守しつつも、独自の路線に進んでいます。
そして何故ネガティブをネガティブとして描かないのか。
描いてはいけないのか。
それは、人々がネガティブであることをネガティブであることとして受け止められないからです。
以前知人から拙作について、「あなたはある意味強い人で、不幸を不幸として書いている」と言われたことがあります。
人々(主に大衆と言われる人)は不幸を直視できないようなのです。
では『忘却バッテリー』はどうでしょう?
『忘却バッテリー』では不幸を不幸として描いていることが多いです。
ネガティブなこともネガティブなこととして描いている。
では何故それでも受け入れられるのか?
それは要圭をはじめとする登場人物たちのギャグにあります。
要圭は物語序盤で記憶喪失になるのですが、とにかくギャグを連発し、明るく振る舞います。
このギャグの多様により、ただのやっかみに堕してしまいそうなネガティブな話が、読者に直接投げかけられる前の逃げ道として機能しています。
もしこの作品にギャグがなかったら?
この漫画は才能ある者や成功者に対するただの愚痴になってしまうでしょう。
その点で、『忘却バッテリー』も『H2』もネガティブを直接読者にぶつけないことに成功しています。
さて、私は原作にも興味が出て来たので毎週のアニメを楽しみにしつつ、漫画も買ってみようかと思いつつ、あだち充の『H2』も押入れから引っ張り出して来ようかと思っています。

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