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20211008『狐憑』稽古場日記

『狐憑』の稽古。
3回目にして初めて顔を出した。
本当は最初から参加したかったのだけど、仕事の忙しさや自身の体力の関係でかなわなかった。

ウミウシのタクシーは、横川敬史・塗塀一海・長谷川皓大の3人(撮影の前川悠香とロゴデザインの尾関亜也を含めれば5人)を中心に結成した演劇ユニットであるが、今回上演する『狐憑』は二人芝居の形をとっている。

僕がウミウシ以前に所属しているカンパニーの公演日と『狐憑』が被ってしまい出演できなかったというのが、大きな理由のひとつ。
結局コロナ禍のごたごたで残念ながらそちらの企画は無くなってしまったのだが…

それぞれ仕事や家庭、YouTube配信といった生活状況があるなかで持続可能な創作の場を考えた時、「必ずしも全員揃わなくても何かを作れる」という体制は発見だったように思う。

稽古は、役者が向かい合うところから始まった。
「つま先が動いた」「軸がブレている」
この日の相手の状態や挙動、所作をひとつひとつ伝え、お互いの身体を点検しているようだ。
「髪が跳ねているのか跳ねていないのかよく分からない」という長谷川から横川へのパス。確かに、横川の髪型はそうとしか形容しようがない。
続けていくうちに主客の転倒が起こった瞬間が面白かった。

そのまま第一場の立ち稽古に入る。
冒頭に長谷川の長いモノローグがある。
どうしたら最初の台詞を展開できるか。

ふたりは設定として、教壇を導入したようだ。
原作者である中島敦が、女学校の教員をしていたことから材を取ったという。

僕の信頼している演出家が、かつて「役者がまず作ったものが一番面白い」と言っていたが、その言葉を思い出す。あれは、演出家主導でのクリエイションを批判していたのだったか…

ともかく、演出家を立てないというやり方でふたりがもがいている様は、この団体の模索と密接にリンクしているようも思えた。

1回目。緊張していて、如実にうまく行っていない。
今日は僕の他に前川と尾関も観に来ている。
やりながら感じたこと、違和感、必要なことを確認しながらフィードバックを行う。

明確な演出を立てないと言った以上、こういう時自分の立ち位置に困る。
ふたりと対等にやり方を模索しているつもりでも、思わず、口を出し過ぎてしまう。

2回目。戯曲の解像度が上がって見えた。
見えたというよりも、聴こえてきたというべきか。
活字で読むよりも長谷川の書いた詩の豊かさが浮かび上がってくる。ただ、その豊かさがまだ片鱗しか伝わって来ず、もどかしい。

3回目。
横川の役は、複雑だ。
ひとつの身体のなかに複数の(こう言ってよければ)役が内在しており、かつそれが同時に現れたり隠れたりする。
役の表面に現れる「それ」をごく単純に演じてしまえそうになる(横川の力量ならばはそれができてしまう)が、決してそこに安住してはならないように感じる。メタの視点が何重にも必要だ。
自然と話は抽象的になり、横川は頭を抱えていた。僕の語彙の不足も難解さに拍車をかけている。反省。

4回目。
苦しみながらも、ようやく見られるものに近づいてきた感じがある。
2人は優れたインプロバイザーでもあるので、言葉と言葉の隙間に現れる「遊び」の尻尾を捕まえるのが上手い。
破綻の谷間の縁で、プレイし続けるふたりの姿には非常に信頼が置ける。
どうか緊張感を損なわないように…
(緊張感が度々行方不明になるのが、我々の最大の弱点だ。)

次回までにやることを確認して、この日は解散した。

僕たちは稽古で作品をつくりながら、自分たちの在り方も模索している。
この2年ほどは、コロナ禍で演劇に関わらずあらゆる機会が潰えた。それは同時に、自分たちの立ち位置や自分たちが本当は何がやりたいのかを見据える期間でもあった。

だから(フライヤーの紹介にもある通り)僕たちが各々の関心を軸に、ものを読み、考え、つくったりする場を求めて「ウミウシのタクシー」が爆誕したのは時代の必然だったのかもしれない。

古潭シリーズvol.1『狐憑』
11月20日より始まります。

ウミウシのタクシー 塗塀一海

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