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20211111 『狐憑』稽古場日記

通した。
大体1時間くらい。
二人芝居だし、それなりの密度もあるので妥当な気がする。

役者だけの稽古日で、かなり詰めたようだ。
毎回同じようなことを書いているけれど、戯曲の言葉は役者の声と身体を通して本物になる。
今日も、ひとまずその実感を持てた。

『狐憑』は、中島の原作もそうだが、長谷川の翻案もテイストが暗めだ。
人は死ぬし、絶望もする。
誰かの不幸を前にしたときの、どうしょうもなくざわざわとした気持ちにもなる。
字面だけ読めば。

これを長谷川と横川がやることに意味がある。
なぜなら長谷川はどこまで行っても「なんちゃって感」を手放さないし、横川は底抜けに楽観的だから。
(馬鹿にしているわけではない…)

言行不一致ではないけれど、「やろうとしていること」と「実際にしていること」のどうしょうもない乖離こそ、僕たちが扱わなくてはならないことだと思う。

身も蓋もない話だけど、現に生きている多くの人間はこんなもので、この一貫性の無さに対する自覚の無さを問題にしなければいけない気がするから。


脱線した。

今回の『狐憑』は第3場が複数に分かれている。
これは、戯曲を読まなければ分からない。

その3場の3パート目が僕には全然掴めていなくて、長谷川に訊いたりした。この作業、一番初めにしなきゃ駄目だよね。あまりにも分かったふりで乗り切り過ぎている。第二弾では改善する。

(シリーズ古潭は『狐憑』『木乃伊』『山月記』『文字禍』の順で上演していく予定。別に隠してないから、告知しても怒られないよね…?)

長谷川が原作の外から引いてきたいくつかのキーワードを踏まえて、やってみる。
ふわっとした部分がだいぶソリッドになった。
横川は情報があればいくらでも広げてくれるので、あとは心配要らない。
次回は最後の方を詰めて、全体を荒削りする作業に移れそう。

稽古場の外の話をすれば、広報って難しい。
他の2人がどうかは知らないけど、僕は宣伝が苦手だ。

特に個別に連絡するやつ。
告知されたらなんか返さなきゃいけない気持ちになるし、告知しても反応ないと寂しい気持ちになる。
どちらに転んでもおれは駄目だ。
集客上最も役に立っていない自信がある。

かといって人が入らなければ意味がない。
普段上演に触れない職場の人たちにそれとなく宣伝したり、近場に住んでいる親戚に声をかけてみたりする。

こうやって稽古場日記を書いているのは、自分の思考を整理したり、考えていることを役者に伝えたり、やっていることを外部の方に紹介するためだ。(俳優として致命的だと思うのだけど、僕は話すより書く方が好きだ。そして好きと得意はまた違うという…)
それとは別に、何か宣伝効果を期待している自分もいる。

なにせあと1週間と少しで本番なのだから。
毎度どの口が言うのかと怒られそうだけど、なるべく多くの人に見てほしいと思っている。
そして、第二弾、第三弾と追ってきてほしい。


残りは余談だけど…
最近あるインタビューで鈴木忠志が、個別の役割を越境するという意味で大雑把に「演劇人」だと言っていた。
SCOTの人たちは飯も自分で作るし農業もするから。それは「農家」とか「俳優」とか変な役割意識で分割する必要はないってことだと思う。
急に農村に行ったりみたいなラディカルなことはできないけど、僕らも自分で料理したりプログラミングしたり介護したりゲーム実況したり絵を描いたりする「演劇人」ってことで、あんまり個々の役割にこだわらなくても良いかなと思った。
雑に援用したら鈴木忠志に怒られるかもしれないけど。そうじゃねぇよって。

ウミウシのタクシー 塗塀一海

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