魔女

最近SNSが全くと言ってよい程楽しくない。slahahというアプリケーションの匿名サービスも共有の仕方を失敗してしまったのかわたしが軽率だったのかなんだかとても傷つくことがあったので消してしまった。TwitterやInstagramも今は開きたくもない。フォロワーさんが増えるとモラルの無い人と出会うことは仕方がないことなのかもしれないけれど、それでも顔も知らない誰かのせいで傷つくのはなんとも虚無な気分になる。わたしも軽率な言葉で誰かを傷つけてしまうようなことは絶対にしないように細心の注意を払ってSNSを利用しようと思う。そして、最近ブログが更新されなくて寂しいという声をたまに頂戴する。そのコメントに対しては本当にすごく嬉しいし、くすぐったい気持ちになる。有難う。わたしは悲しい時や感情の行き場がなくなってしまったとき、誰にも吐露できないような気持ちになったときに、つらつらとここに文章を書き殴っていた。それは自分の嫌なことに対してだったり、素晴らしい映画についてだったり、ただぼんやり散歩していて景色が美しいと思ったことだったり。どれも一貫していないことばかりで。沢山自暴自棄になって、最低な文章も書いて。でもわたしにとっては1番の救いだった。人とコミュニケーションを取るのが下手で、でもどうしても吐き出したかった自分のぼやけたかたまりが在り続ける葛藤を、ブログでは自由に文章として昇華することができた。いわば自分の話だけを並べられる庭でありゴミ箱だ。
最近は、とても安定した生活を送っていると自分では思っていて、LINEブログのアプリを開く回数も格段に減った。ちょろちょろと文章は書いているが、SNSで共有する程には至らない。その理由は色々ある。細々ながらも月並みに学校に通えていることだとか、恋人ができたことだとか、誰か相手に向かって声に出して話すという行為が増えたことだとか。特に、恋人ができたことに関して言えば、周りの方からもよく指摘される。貴方は明るくなったとか、よく笑うようになったとか。客観的に見てわたしがそう映ると思うと少しびっくりしたけれど、確かにとても素敵な人に出会うことができてわたし自身、少しずつ変わってきているような気がする。自分の生活の中で、下らない自分を認めてやろうだとか、どうしようもない苦しさも噛み砕いてきちんと飲み込んでみようとか、そういう意識をちょっとだけ持てるようになった。空っぽで電源を付けっぱなしにして冷やされていただけの冷蔵庫の中身が日に日に増えていく感じ。外に出るのも最近は楽しくなって、ひとりで電車に乗れるようになったり、バスに乗ってみたり、とにかく行動範囲と外出の意欲が広がった。べそべそ泣きながらブログを更新していたときに比べると、随分と生活は充実している。
それで文章が書けなくなるというのは、とても幸福なことだろうし、そしてまたわたしの甘さでもあるだろう。良くも悪くもやっぱりこのブログは自分の鏡である。どれだけ恵まれて幸せでも、わたしの心の根底はずっとわたしが大嫌いなわたしのままで、人を信用できずぐずぐずしている鈍間なのだ。少し嫌なことがあると、過去も引っ張り出してきて悲しみに暮れてしまうので、最早わたしは感傷的にならないと生きていけない生き物なのかなと毎度びっくりする。今まで自分に向けられた言葉を思い出さないと、ほんとうにひとりぼっちなきがしてくる。ひとつひとつ思い出して、それらすべてを丁寧に噛み締める。何時間もかけて、途方も無い回数の自責の堂々巡りを繰り返して、やっとわたしは家族や恋人、友達がすぐそばにいてくれていることに気付く。そして結局人生なんてものはご機嫌でいることくらいしか目標がないことを痛感する。心底幸せから振り絞った文章を書きたいと思う。それが出来ないようなわたしはきっと永遠に青いままなのだろうし、自身が綴る文章にそういった変遷があってもいいのかなと思う。そして、自身のことについてもうひとつ。小学校から一緒の友人に、先日こんなことを言われた。「きみは誰にでも合わせて喋ることができる。ハードルをちょうどいいくらいに上下できる。その上に愛想がいい。物理的な距離も近い。それは長所でもあるけれど、おかしく勘違いされてしてしまうことも多いと思う。周りからするとあの子は異常とまで思うかもしれない、あざといとかビッチとか沢山言われてきただろ。実際、ぼくもきみに対してそういう思いを抱いた事があるよ。けれど、きみからすると普通のことなんだろう。だからどうしようもないんだよね。しんどいんだろうね。」わたしはびっくりして、傷ついた気がした。その子が言ったことはよく当たっているから。ビッチなんて本当に数百回は言われただろうし、親や親友にもお前は思わせぶりだとよく注意喚起を受ける。'誰にでもへらへら同じ態度で接している人間'というのは実際問題、すごく気味が悪い。どちらかというと、わたしは人と話すのが苦手な方だし、ひとりで本を読んだり散歩している方が楽で好きだ。だからこそ好きな人には可愛いところを見せるとか、そうでもない人にはそうでもない風に接するということが上手くできない。いろんな人へ向けての感情の違いや区別ははっきりあるのに、それを器用に相手に伝えられない。今までそのせいで色んなことを言われてきた。誘ってきたのはお前だろ、なんで横取りしにくるの、どうせ遊びたいだけじゃないのか。誰にでもいい顔をしてるからそうなるのは、身を以て痛い程理解している。けれど全て本当に無意識だから、治せずに困っているのだ。それに、自分は自分しかいない。全世界の人間、わたし以外全員他人なのだ。という半ばどうしようもない下らない諦めがどこか心の中にある。様々な人間が生きているからこそ少しでも分かり合うために、共存していくために、人と人とは会話を紡ぐはずだ。けれどわたしは絶対に人と分かり合えない瞬間だったり自分しか知り得ない世界が数多あるとすぐに項垂れてしまう。誰かと生きるということが根本的に下手なのだ。一定の壁みたいなものを築いてしまう。そんな凝り固まった頭のままで、色んな人に色んな感情表現が出来るわけがない。しかもどんなに自分自身が幸福でも、次のフェーズ、お前は人を幸せにできるかと問われるとさらさら自信がなくなる。自分はできないという不安が100倍にも200倍にも膨れ上がる。そういうことを考えていると、きっとまだまだこのブログを捨てる日は遠いなと苦笑してしまう。わたしはやはり何に対しても甘すぎる。これからもどんどん訳の分からない葛藤を繰り返して、ひとりでぐちゃぐちゃになりながらここに文章を書き落としていくだろう、その度に少しずつ自分の大切な人をうまく愛せるようになればいい。その愛でまた文章を書けるようになればもっといい。その繰り返しをしていくことがわたしにとっての大人になっていくということなのかな。真っ直ぐな人間になってみたい。更新頻度はめっきり減ってしまったけれど、それでもこのブログが好きだと言ってくれるフォロワーさんや、貴方の言葉が好きだよと言ってくれる恋人が居てくれる事に本当に救われます。やっぱりわたしはここで細々やるのが性に合っている。もしまた遑が出来たら、覗いてくださると嬉しいです。久しぶりに沢山文章を書けて楽しかった。ではさようなら。

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