LEON

監督 リュック・ベッソン
昨日は眠れなくて、ブログを二本も書いてしまいました。此方は2本目です。いきなり連日投稿しますがお許しを。今更だが、少し前にこの映画を観た。きっと愛せる、と確信して観た映画だったが、やはりどうしようもなく愛おしい作品だった。同じ監督が撮っていたLUCYもすごく面白くてわたしはとても気に入っている(実はLUCYの批評も書いているのだが、どうも文章がしっくりこず去年からずっと下書きにお蔵入りになっている)。リュック・ベッソンはとても繊細でユニークな人だなあと毎度思う。とても有名な映画なので観たことがある人も多いと思うが、大まかな粗筋を書いてみる。まず、主人公であるレオンは、腕利きの殺し屋の男性だ。女子供以外の殺人は幾度となく仕事として遂行してきた。観葉植物が友達で、牛乳好き。自分に対してはとてもストイックな面を持つ。対してヒロインであるマチルダは、12歳の女の子。家では虐待を受けていて、弟以外誰にも心を開けないまま生活している。父親が薬物を使用していたせいで彼女以外の家族全員がスタンスフィールドという男に殺されてしまう。決して彼女の家族仲はよくなかったが、唯一、自分を慕ってくれた最愛の弟まで殺されたマチルダは、悲しみと怒りにくれる。そこで、行く当てもなくなり孤独になった彼女は同じアパートに住んでいたレオンに、人の殺し方を教えてくれるように頼み込みに行くのだ。始めは人と馴れ合えない性格の為マチルダを煙たがっていたレオンも、真っ直ぐなマチルダに徐々に心を開き始めていくーーというストーリーだ。それから、実はスタンスフィールドは麻薬取締局の人間で、その権力を私欲の為に使っていた最低な男だった。どんどん二人の復讐劇が始まっていく、という展開である。マチルダは12歳とは思えない発言をよくする。何処か危うさと大人びた雰囲気の二面を持ち合わせていて、何の臆面も無くレオンに愛していると言い放つ。「わたしが欲しいのは愛か死よ」と、とんでもなく暴力的で孤独な愛を率直に言える彼女の強さとその横顔は、画面の中でいつも美しかった。あと服もとても素敵だ。現代でもめちゃくちゃお洒落だと思った。愛の形とは本当に幾つもあって、マチルダとレオンのそれもまた歪なものだった。けれど、ずれるという感覚は人と比較してはじめて生まれる。マチルダの愛は何処か普通とずれているはずだが、きっと当の本人は何も気に留めていない。気にしなければいけないと思う経験すらないのだ。そういう純粋さ、レオンを愛することしか生きる術がない世界の狭さの全てが、彼女をとびきり美しくしているのだなと思った。ぐにゃぐにゃな愛も、本人達以外何も否定することはできない。浮気されていようが仲が悪かろうがお相手がクソみたいな人間だろうがその人を自分が愛せるならそれはもう貴方にとって愛なのだ。どんなに不幸な恋愛をしていようがそれだけは疑わなくてもいいと思う。好きに愛し合って傷ついてまた愛し合えばいい。唯、傷ついてまでその愛を得たいのかはよく考えた方がいいけれど。例えば、わたしは浮気のできる人は寂しい人だと思う。好きな人の愛をかっぱらうのはそんなに簡単なことではない。色んな覚悟や、教養や、我慢が必要になる。たかが人間一人が心の底から人を大切にできる時間なんてしれている。わたしはきっと人はたったひとりしか愛せないようにできているよという綺麗事を、ずっと思い、言葉に出し続けている。そうやって自分の美学を確かに守りながら、好きな人だけを愛し、ひとつずつ毎日を手作りしていきたいと思う。本当に燦然で美しい、それでいてほろ苦い映画だった。彼等は最後、幸せになれなかった。それが悔しくて寂しくて、マチルダの物憂げな表情から目を離すことができなかった。愛とは何か、答えについてわたしは死ぬまで分からなくていいと思っているけれど、これからその道に悩んだ時はきっとこの映画を何度も観るのだろう。観て良かった。脱帽でした。
後、少し寂しいと思った小話をひとつして眠ろう。わたしは今までに何度も悪口を言われたことがある。それはネットの人であったり、リアルでお喋りしたことのある友達であったり。わたしは沢山言われすぎてなのか、その人たちにあまり興味が無いからなのか、誹謗中傷されることに対して微塵も傷つかなくなった。悪口を言われること。それは生きていたらどうしようもなく避けられない道で、世界人口全員に愛されるなんて到底無理な話だ。どう生きたって何処かの誰かの反感は必ず買う。けれど、そういった心無い言葉を浴びせられた本人は多少なりとも傷つくべきだとわたしは思っていて、それができない自分が理解できない。根も葉もない話でも、悪口というものは本人にとっては決して気持ちのいいものではないから。傷つくべきところに鈍感で、鋭い痛みさえもわからないというのはよくないことだ。周りで悪口を言われて泣いていた友人もいたし、怒っていたクラスメイトもわたしは今まで見たことがある。彼等にはすごく失礼だけれど、他人からの意見でそれだけ感情の起伏があるということに羨望の意を感じた。"なんか、いいなあ"とぼんやり思ってしまったことが幾度となくこれまであった。きっとわたしはもう死ぬまで向けられた悪口に対して傷つくことができない。わたしはそういう冷たくてつまらない人間なのだ、と思うととても胸が苦しくなる。自分のことに鈍感になってしまっても、せめて、好きな人の痛みは気付けるようになりたい。一緒に痛くなりたい。そうやってまた周りから刺される痛みというものを思い出すのだろう。小話と言いながらたらたら書いてしまった。何故だか今日は永遠に文章を書きそうなのでこの辺で終わります。またね。

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