マリー

きっとわたしの中で、歩くことと独り言を言うことは同じだ。散歩をしていると、四方八方に飛んで行って灰になった筈の自分の言葉が、ふわふわ浮かんでくる。本当の好きが何処へ行ってしまったのか、或いはまだ見つけられていないだけなのか、未だにわたしは分からない。嫌いなのに結局帰ってきたり、好きだから一緒にいられない憎しみが募ったり。人間は忙しいよなあ。わたしもその枠組みや、ヒエラルキーの中で生きている訳だけど。取るに足りない自分の言葉は、此処に沈めていくよ。面と向かってこんなことを言える人は誰も居ないのだ。それはそれで静寂でいいんじゃないか。

春の散歩に涙は野暮だ。幸せと虚しさが身体の頭からつま先までいっぱいに込み上げる。時は夕暮れで。この時間帯に歩くのがベストだろうと歩いていて思った。散るに向かう桜は、雨のように止め処なく降っていて、金色の瞳をした黒猫がずっと此方を見つめていた。なんて過不足のない、美しい時間なんだろう。わたしは感嘆する。いつも疎外感ばかり感じて生きてきた自分でも、地球の一部に溶け込めるような気がする。
ネットでのわたしを、皆はすごく褒めてくれる。罵詈雑言を投げつけられることも偶にはあるが、圧倒的に共感や賞賛の声の方が多い。わたしは嬉しくて、ついついブログやTwitterにのめり込んでしまう。文章を書くのは、苦しくて楽しい。良くも悪くもこのブログはわたしの沼の底だ。このような媒体で文章を綴るのを始めたのは、誰かに見て欲しいという気持ちが大きかったからだけれどそれに反し、こんな駄文を人に見せてもいいものなのかともよく思う。しかも現実のわたしの生活はいつも転んでばかりで、しょうもなくて、恥ずかしい。それに怠惰だ。言い出せばキリがない。なのに。普段の日常生活では有り得ない経験を、今読んでくれている貴方達には幾度となくさせてもらっている。本当にありがとう。申し訳なくて有り難くてどうしようもないです。もう少し文を書き殴って生きていかせてください。嫌いになったら離れてください。好きになったら時々帰って来て下さい。ネットと現実の差に酷く落胆することもあるけれど、此処があって良かったと救われたことが確かにありました。
明日も頑張ろうなんて希望を持ったことは殆ど無いが、まだ生きられそうな気がする。いつか憎らしい自分を許してあげられる日がくるかもしれない。来ても来なくても、明日もなんとか生きてみようという毎日がずっと続けばいい。自分にはこれくらいがきっと丁度良い。春が過ぎてしまっても、此処にわたしがいたことを、誰かが覚えていてくれたら幸いです。それでは散歩に戻ります。さようなら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?